この説文は、2017年8月、全国邪馬台国連絡協議会の「私の古代史論」に投稿し、掲載されたものです。


『古事記に秘められた指令…唐王朝を再興せよ!』

                                        西山恒之

<はじめに>

先の投稿で、唐王朝が、西暦6631118(旧暦1010)、我が国を占領・征服したことを述べました。しかし、その唐王朝も907年、朱全忠らによって滅ぼされてしまいました。
 大陸から放逐された唐王朝の残党勢力は、過去散々蔑視してきていたこの列島に身を隠すしかありませんでした。ところが、彼らは、それによって逆に彼ら自身が蔑視される立場に陥ってしまいました。そんなことに耐えられるわけもなく、彼らは、この列島からそのような卑下されていた歴史を消し去り、あたかも自らの祖先が遠い太古の時代から、この列島を支配していたかのような歴史を創作したのです。それゆえ、我が国の歴史からは、前王朝に関わる卑弥呼も邪馬台国も消されてしまいました。そういった架空の「新しい」歴史認識が、古事記や新唐書に残されました。
 さらに、この列島に逃げ延びてきた唐王朝の残党勢力は、いつまでもこの列島に安住するつもりなどなく、いつか、再び大陸に支配者として舞い戻ることを固く誓ったのです。しかし、王朝貴族の彼らにそんな力などありません。そこで、支配下にある日本人を騙して大陸侵略の手先とすることにしたのですが、そういったことをストレートに記述して残せばいつかは日本人にも伝わってしまいます。ですから、彼らは、自分たちだけが理解できるように粉飾して残しました。それが、今に伝わる古事記です。
 古事記には、この列島の中枢を支配する唐王朝の残党勢力に、「大陸に唐王朝を再興せよ。そのためには日本人を徹底的に騙して利用せよ」と伝え残されています。
 ということで、今回は、古事記について検証してみましょう。

 
1、 天照=武則天の指令による列島征服

唐王朝が崩壊し、この列島にその王朝貴族が流れ着き、彼らにとって都合よく歴史が作り変えられました。
 その改竄された歴史の中で、最強の神は『天照』です。そして、『天照』の弟が『スサノオ尊』とされています。この列島の人々にとって、最も尊い神であるはずの『スサノオ尊』は、まるで妖怪のごとくに忌まわしい姿で描かれています。
 つまり、征服された民族の象徴は、征服した民族によって貶められるということです。
 こうして、出雲王朝の最強の神は、唐王朝・藤原氏の神を意味する『天照』の下に置かれてしまいました。
 その天照は、古事記の中では、勇猛な姿に描かれています。スサノオ尊が天照のいる高天原に近づくと、天照はスサノオ尊が国を奪いに来たと思い、武装してスサノオ尊を迎え撃とうとします。ここでは、出雲の勢力には決して油断することなく万全の構えをせよということが述べられているとも言えます。
 そして、その天照は、自分の子どもにスサノオ尊の世界を支配させたいという意思を表明します。これは、まさしく663年、武則天の指令により、この列島の出雲王朝『大国』が征服されたことを伝えています。
 天照は、まず一人二人と出雲の平定に向かわせるのですが、大国主命に取り込まれてうまくいきません。そこで、武甕槌神(たけみかづちのかみ)にお供を付けて中つ国、出雲国の平定に向かわせます。その武甕槌神が降ったのが出雲国伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜です。武甕槌神は、浜に剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫ります。大国主命は、二人の子どもの神に相談するのですが、つまり家臣でしょうか、その二人とも武甕槌神に太刀打ちできず、結局、大国主命は国を『献上』すると言ったとされています。
 まずは、交渉をするのですが、所詮は侵略行為ですから『平和的』にそんなことができるはずもありません。結局、武甕槌神による実力行使で出雲が平定されたと描かれています。
 ここでは、李淵によって唐が建国された時と同様の手法で、この列島が征服されたことを描いています。まずは、武力で以って制圧し、その後に『禅譲』という形式でその侵略行為を正当化するというものです。ここでは、さらに『献上』されたとまで美化しています。
 武則天の忠実な家臣であった劉仁軌によってこの列島が征服されていたことが、古事記では天照の指示で武甕槌神により出雲が征服されたとあり、まさにその史実に相当しています。
 また、同時に、武甕槌神の働きがなければ、その後に続く神武天皇以下の天皇も成り立たないということにもなります。その武甕槌神を、藤原氏は、奈良春日大社の第一殿で奉っています。
 このように、『天照』は、武照、つまり武則天を意味し、その武則天の指令によりこの列島が征服され、今にも続く天皇のルーツは武則天にあるということが伝え残されています。

 


2、出雲の祟り

この列島を占領征服した唐王朝の勢力は、唐()を源()にするという意味で藤原氏を構成します。彼らは、出雲王朝を征服したものの、その祟りに怯えていたということもうかがえます。
 出雲王朝が、唐に対して何をしたわけでもありません。服従しないからとか、あるいは水銀欲しさといった身勝手な理由でこの列島を侵略し、占領したのですから、決して心安らかではなかったのでしょう。その上、出雲から『献上』されたといった都合の良い偽りの『歴史』をでっちあげているのですから、相当恨まれるだろうということぐらい分かります。
 その自責の念にかられ、あるいは出雲の祟りに怯えて、その不安から枕を高くして眠れぬ夜もあったことでしょう。崇神天皇の段には、その時代に疫病が大流行して、人民が死に絶えようとしていたとあります。そして、その時、天皇の夢の中に大物主神が現れて、『これは、私の意思によるものだ。だから、意富多々泥古(おおたたねこ)をして私を奉らせるならば、神の祟りによる病も起こらず、国もまた安らかであろう』と言っています。そこで、その意富多々泥古を探し出して、大物主神を奉る三輪山で意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を拝み、さらに天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)を祭る神社を定め奉ると、疫病はすっかりやんで、国家は平安になったとあります。
 つまり、出雲を征服した彼らは、その『祟り』に相当怯えていたということがうかがい知れます。
 ですから、後の藤原氏にも出雲を奉る事を忘れてはならないと伝えています。
 『祟り』の話は、まだあります。
 垂仁天皇の御子は、大人になるまで物が言えませんでした。その天皇の夢に神が出てきて、『私の宮を天皇の宮殿と同じように整えたら、御子は必ずきちんと話せるようになるだろう』と言うのです。そこで天皇は、『その夢は、出雲大神の御心によるものだ』と、御子を出雲に参拝させました。すると、その御子は言葉が話せるようになり、天皇は、出雲の宮殿を新しく造らせたとあります。
 そういった理由からかどうかは分かりませんが、彼等の天皇の住まいであった『京都御苑』の敷地内にはいくつかの神社があります。その御所の南の真正面には『厳島神社』が、そして、その傍には『宗像神社』があります。
 このように、藤原氏が出雲の『祟り』に大層怯えていたということ自体、加害者としての認識を持っていたことの証でもあります。同時に、加害者意識があることから、その報復を危惧してもいました。
 つまり、その対策を講じる事も決して疎かにしてはいません。出雲の勢力による報復や出雲王朝再興などといった反攻の対策として、『征夷大将軍』を設置して、常にその監視と制圧を行っていました。
 征夷の夷は、夷人であるところの出雲の勢力をも意味しています。
 平安朝の頃に設置された征夷大将軍は、その後も徳川時代に至るまで残されました。
 そういった出雲対策は、遠い過去のことではなく、今も引き続き行われています。
 歴史認識という点においても、出雲大社をはじめ神社や遺跡などの分析も含めて、記紀認識内に押し留めるような対策は怠ることなく徹底されています。 

 


3、大陸を侵略せよ!

第十四代仲哀天皇の段で、仲哀天皇が、神のお告げを請い求めると、その神は『西の方に国があり、金銀をはじめとして、目もくらむような種々の珍しい宝物がたくさんその国にはある。私は今、その国を帰服させようと思う』と答えています。
 つまり、その神は、大陸を征服せよと天皇に指示を与えています。
 仲哀天皇は、西の方を見ても何も見えないので、『国土は見えず、ただ大きな海があるだけです』と答え、その神の言うことに不信を持ち、知らん顔をして琴を弾いていました。するとその神は、『およそこの天下は、お前の統治すべき国ではない』と怒ってしまいます。それでも、仲哀天皇は無視して琴を弾いていましたが、そのまま絶命してしまいます。まるで、神の言うことに従わない者は、たとえ天皇であっても許されないということを意味しているようです。
 そして、次にその皇后が、また神にお告げを請います。その神は、『この国は、皇后の胎内にいる御子が統治する国だ』と言い、さらにその御子は『男子である』とまで答えます。そこで、その皇后は『今こうして教えをさとす大神は、いずれの神であるのか、その名前を知りたいと思います』と聞きます。すると、『これは天照大神の御意思である』と答えたとあります。
 つまり、天照の意思は絶対だと言っています。
 これは、どういうことを意味しているのでしょう。
 天皇は、一般庶民に対しては絶対的な権力者であり、明治憲法下では、神聖にして侵すべからずと、強権でもってその支配力を行使していました。ところが、記紀にあっては、天皇よりも天照の方がさらに絶対的な支配力を持っていたということになります。天照の意思であるとすれば、天皇であっても従わざるを得ないということのようです。つまり、絶対的な権力者であったかと思われる天皇の背後には、さらに強力な支配者がいたことを意味します。
 すなわち、唐王朝・藤原氏こそが、天皇の背後にあって実質的な支配者だったということになります。その『天照』は、同時に『武則天』をも意味しています。『私は今、その国を帰服させようと思う』といったような征服欲は、武則天からの指令を意味してもいます。
 つまり、この列島の藤原氏の勢力にしてみれば、天照、すなわち、武則天の意思は絶対だということでもあります。そして、『本当に西方の国を求めようと思うならば、天神や地神などあらゆる神を奉り、様々の捧げ物を大海に散らし浮かべながら渡って行くが良い』と、天照の大号令が発せられます。それに従い、皇后が海を渡っていくと、船は波のまにまに進み、追い風も盛んに吹き、波に乗って船は一気に新羅国の半ばにまで達したとあります。
 このように、天照により大陸侵略への指令が出され、皇后はそれに従って侵略に向かっています。
 この神功皇后も、皇后武則天とだぶります。武則天自身、朝鮮半島を征服していますし、武則天が帝位に就いていた時、六九七年には『神功』という年号を付けています。
 また、ここでは、仲哀天皇のように、大陸侵略に消極的な天皇は消されるかもしれないという、藤原氏からの『脅し』とも言えるほどの強烈な大陸侵略へのメッセージが残されています。恐ろしい事に、現実の歴史上にあっても、秀吉の時代、あるいは明治以後第二次大戦中まで、我が国の支配勢力は、実際に大陸を侵略しています。
 その背景に、この記紀で述べているようなことがあるとしたら、かなり危険なことです。というのは、天照の大陸を征服したいという意思、あるいは仲哀天皇や皇后に大陸を侵略せよと出した指令が、その後撤回されたような話は出てきません。
 その意思や指令が、藤原氏の大陸回帰への宿願を意味しているとしたら、大唐帝国再興という、彼等の大陸侵略への策動は、天皇が存在している限り途絶えることはないということにもなります。
 また、『天照』は、全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮で奉られています。それは、同時に、『武則天』こそが、この列島の皇祖神だということをも意味しています。
 1960年代後半以降、現職総理大臣が毎年年始に伊勢神宮を参拝しています。庶民の『初詣』とは、訳が違います。政教分離を厳格に定める憲法と相容れないその行為が、はたして何を意味しているのでしょうか。
 そこにおいて、この国の最高権力者が、大陸侵略への大号令を発している天照、つまり『武則天』への忠誠を誓っているとしたら、我が国の将来にとって極めて危険な動きだと言わざるを得ません。 

 


4、『騙せ』…謀略が基本

武則天は、第3代皇帝李治との間にできたわが娘でさえも、皇后の座を手に入れるためには、自ら娘の首を絞めて殺害し、それを王皇后の仕業だとして王皇后を失脚させ、尚且つ自らが皇后に就くやいなや、その王前皇后らを虐殺しています。その後も反対派を数百名も殺害するなど、徹底した独裁的手法を駆使しています。
 その武則天を皇祖神とする藤原氏ですから、彼らの手法もそれに徹しています。
 倭建命が、天皇の命を受けて、天皇に服従しない熊曾建の兄弟を討ち取りに行くという話があります。つまり、唐王朝が、周辺諸国に『朝命』でもって従属させようとした視点と同じです。唐王朝に服従しない出雲王朝を征服したということの反映なのかもしれません。
 その倭建命は、熊曾建の兄弟が軍勢に囲まれていて中に入れないので、しばらくして祝宴の時、少女のように髪を結い、女装して紛れ込みます。その兄弟は、倭建命が女性だと思い、油断をして二人の間に座らせました。そして、宴もたけなわの頃、倭建命は、懐から剣を出して兄弟を刺し殺してしまいます。
 『正体を隠して隠密行動で仕留めよ』
 こういった隠密裏の謀略が、彼らの基本的手法だと述べています。まさしく武則天の手法と同様です。江戸時代にまであったと伝えられている忍者とかも、そういった理念から作られたのかもしれません。あるいは、装いを変えて、その後も残されていることも考えられます。

 さらに、倭建命は、出雲国へ行き出雲建の殺害を計画します。まずは、出雲建と親しくなり、その一方では、木で偽物の太刀を作ります。相手に敵意を持たせず、油断させろということのようです。そして、倭建命は、その偽物の太刀を身につけて、出雲建を河へ水浴びに誘い出します。そして、二人で水浴びをしていると、倭建命は河から先に上がって、出雲建の解いて置いてある太刀を身につけます。さらに、後で上がってきた出雲建に『太刀を交換しよう』と言って、出雲建に偽物の太刀を身に着けさせると、倭建命は、『さあ太刀を合わせよう』と言います。そこで、二人は太刀を抜こうとするのですが、出雲建の持っている太刀は偽物だから抜くことができません。倭建命は、すぐさま、持っている太刀で出雲建をうち殺してしまいます。
 もう、相手は手も足も出せない状態にして、圧倒的優位の状況で確実に討ち取ります。こういった卑劣極まりないやり方が、彼らにとっては最良の方法だと言っています。
 唐王朝・藤原氏は、徹底した謀略、『だまし討ち』を基本戦術としており、それは後々にまで受け継がれているようです。   

 


5、『唐王朝再興』こそがすべての基本

自業自得であるにもかかわらず、大陸を追われた唐王朝・藤原氏にとっては、再び大陸へ戻り『唐王朝を再興すること』こそが、彼らの歴史的宿願であります。さらに、大陸に王朝が誕生して以来、散々卑下してきた『倭人』の住むこの列島にいつまでも身を置いているつもりなど毛頭ありません。必ずや大陸へ戻るというのが彼らの最大の存在理由です。
 では、そんなに大陸へ帰りたければ勝手に帰ればいいのにとも思いますが、密かに帰っても意味を成しません。つまり、現在ある勢力を打倒し、過去の復讐をしたうえに自らの王朝を築かなければなりません。それも、正統なる皇位としてそこに『唐王朝』なるものを再興するという手法です。
 しかし、事はそう簡単に成就できるものではありません。自らの体制がどうか、大陸の情勢はどうかなど見極めなければなりません。過去、武士の力を増強し、秀吉の頃にも加藤清正などが大陸へ向かいましたが、破綻してしまいました。
 そして、逆に徳川時代にあっては『鎖国』とされました。
 大陸では再び襲来があってはいけないと用心しますから、しばらくは手を出さず、『油断』させようとしたのかもしれません。どちらにしても、藤原氏は、大陸への侵攻をしばらくは断念せざるを得ませんでした。
 そして、長年待った甲斐もあったということでしょうか。待てば海路の日和ありで、千載一遇のチャンスが到来しました。大陸の清王朝が、列強各国からの攻撃で弱体化し、徳川幕府もその開国を巡って混乱していました。唐王朝を建国した李淵の手法、つまり混乱に乗じて首都を制圧したように、世情が不安定な時こそが、彼らにとっては最大のチャンスです。
 その中心にあった伊藤博文は、数々の策を講じて実権を奪取します。武則天が皇后の座を奪取した手法と同様です。この一連の開国をめぐる動乱とも言える動きは『明治維新』とされ、まるで新しい時代が来たかのように思われています。しかし、その実態は、唐王朝・藤原氏による全権の掌握であり、平安朝の再来とも言えます。
 彼らの特権的貴族支配を確立し、彼らの象徴である天皇を絶対的支配者として、裏でその実質的支配力を行使する、そんな彼らにとって最強の支配形態が『明治憲法』です。そして、『富国強兵』などと、さも国民には自らの国が発展していくかのように思わせて、大陸侵略へ向けて一路邁進します。
 彼らにとっては、『島流し』にあって以来、およそ1000年後にやってきた、史上最大のチャンス到来です。再び、大陸へ戻り王朝貴族として返り咲くことができるかもしれません。すべてが、大陸侵略、そして『唐王朝再興』へと事態は進みます。歴史教育では、彼らの『バイブル』である記紀認識が国民に徹底されました。
 そして、いよいよ大陸へと侵攻していきました。
 当初は、南満州鉄道の警備だと言って軍事力を増強し関東軍を構成します。関東軍は、1928年に張作霖爆殺事件を起こし、1931年には石原莞爾らが柳条湖事件といった謀略事件を起こして、中国東北部満州を武力制圧し、翌1932年、満州国を建国します。
 まずは、謀略と武力で以って制圧し、滅んだ清朝のラストエンペラー溥儀を傀儡の皇帝とする満州国を建国しています。これは、まさしく唐を建国した李淵の手法そのものです。
 しかし、それは、まだ大陸制覇の橋頭堡を築いたに過ぎません。彼らは、その本丸である中国全土の支配へと戦線を拡大していきます。当時、『大東亜共栄圏』といったアジア一帯を日本の支配下に置く構想が叫ばれました。まさしく、その東とは唐を意味し、大唐帝国再興がその基本的な狙いであったことが分かります。
 そして、南京大虐殺など各地で殺戮を繰り返し2000万人とも言われる人々を虐殺します。彼らは、そういった復讐により、大陸で殺戮されたあげく大陸を放逐された唐王朝貴族の怨念を晴らし、もうあと一歩のところで、このアジア一帯を制圧し大唐帝国再興に至るところでした。
 しかし、そんな侵略行為が成功するはずもありません。世界的な民主主義の包囲網の中で、秀吉に続き、再び彼らの『唐王朝再興』の構想は破綻してしまいました。
 では、戦後、『天照』、つまり武則天を頂点と戴く唐王朝貴族の末裔たちである藤原氏による『唐王朝再興』は、どういったことになったのでしょう。彼らの、1000年以上にわたる『唐王朝再興』の歴史的策動は、これで終焉することになったのでしょうか。

 


6、再挑戦!…『未だばれていない』

第2次大戦で無条件降伏という状況に陥り、『明治維新』以後邁進してきた唐王朝・藤原氏による『唐王朝再興』などといった時代錯誤もはなはだしい妄動は、破綻いたしました。しかし、彼らは、戦後処理の中で、『国体護持』と称して、彼らの大陸回帰の象徴である『天皇』を何としても残そうとしました。そして、現憲法のように『国民統合の象徴』といった形ではありますが、残されました。
 しかし、それは、彼らにとっての『天皇』ではありません。そもそも『天皇』は、唐王朝・藤原氏のシンボルであり、倭人を強力に支配できる絶対的権力者であってこそ、その背後で支配力を行使できます。『まあ、天皇が廃止されるよりはましだろう』ということで、彼らにしてみれば『押し付けられた』としか考えていない現憲法下で彼らは『耐えて』いたようですが、その忍耐ももう限界とばかりに、明治憲法下への回帰が急速に進められています。
 そして、再度、大陸侵略へ向かおうと画策しています。大戦後、多くの人々は戦争に対して数々の『反省』をされたことでしょう。そして、その戦争の『手先』とされ、『騙されていた』と自責の念にかられた人々もあったことでしょう。
 しかし、誰が、誰を、どのように騙していたのかは明らかになっていません。つまり、唐王朝・藤原氏による大陸回帰と『唐王朝再興』のために利用されていたことに気づいた人はありませんでした。
 1300年にわたって、延々とこの列島の人々は偽りの歴史によって『騙されて』きていたのですから、無理もないことでもあります。そして、この列島の人々は、いまだに『騙されたまま』の状況だとも言えるのです。
 ですから、唐王朝・藤原氏の勢力は、まだ自分たちの目論見は露呈していないと考えているようです。そして、今、彼らは、その無謀な企てに再度挑戦しようとしています。強力な軍事力を持つ米軍の戦力を『助っ人』として『次は失敗しないぞ』と、その準備工作を着々と進めています。米軍への『思いやり予算』やあるいは基地移転を理由に何兆円もの税金を湯水のごとく投入するのも、その『用心棒代』といったところでしょう。彼らは、軍事力でもその口実においても、日本だけで大陸侵略ができるなどと考えてはいないでしょう。米軍があってこそ可能になる構想です。それゆえに、米軍が居なくなって困るのは唐王朝・藤原氏の勢力の方です。したがって、アメリカの言いなりになりながら、一方では、何とか米軍が大陸で戦闘を始めてくれることすら願っているのかもしれません。
 つまり、朝鮮戦争の時のように米軍が戦争を引き起こしてくれれば、その混乱に乗じて大陸へ侵攻できるという、李淵以来受け継がれ、この列島が征服された時や明治以降でも試され済みの彼らの常套手段です。
 しかし、彼らは、決してそういった目論見を口にすることはありません。何故ならば、古事記に決して口にしてはならないといったことが盛り込まれているからです。
 古事記に出てくる、因幡の白兎のお話は、よく知られています。島に流された白兎が、サメを騙して対岸に渡ろうとするものです。そして、目指す陸地にまでもう一歩のところで、サメを騙していたことを口にしてしまいます。そのため、白兎は並んでいた最後のサメに酷い目に遭わされます。 

 兎の音は、唐にもつながります。つまり、この列島に流れてきた唐王朝が、再び大陸に戻るためにこの列島の人々を騙して利用したとしても、決してその本心は口にしてはならないといった『口止め』のお話だと、彼らの立場から読めばそういった戒めの話だということになります。
 しかし、このような認識にない人が読んでも、ただの昔話か御伽噺にしか読めません。
 極めて、巧妙に作られています。    

 


7、大陸侵略を阻止するには

では、彼らの企ては、明治時代のように彼らの思惑通りに進んでしまうのでしょうか。
 当時は、世界的にも列強各国が世界を分け合うような流れもあり、そういった背景で彼らの企ても功を奏したというところもあるかもしれません。しかし、現在は、紛争を平和的に解決することを中心とした流れが世界各地で定着してきています。一部、テロ対策を理由に戦争を引き起こした国もありますが、それが彼らがあるいは『期待』していたかもしれない世界大戦といった流れにはなりませんでした。ですから、混乱に乗じて武力で以って制圧するといった彼らのチャンスは、そうそう来ることはありません。
 そうなりますと、謀略的手段を使ってでもその機会を作り出そうとするのが、彼らの常套手段です。すでに、朝鮮半島をめぐって、いろいろ戦略を立てているようです。大陸に「悪者」を作り出し、その悪者に大暴れをさせて、あたかも悪者を退治するかのごとくを装って大陸侵略に突き進もうというシナリオです。
 我が国の支配勢力は、自衛隊の海外出兵を常態化させるなど、着々と、大陸侵略への準備を進めてきています。沖縄の辺野古への新基地建設もその一環です。
 今のわが国は、満州へと侵攻していったその前夜と同様の時期だとも言えます。
 一方、彼らの思惑に反して、この列島の人々には、再び戦争の加害者になることを望むような人はいないでしょう。しかし、謀略事件が意図的に引き起こされ、マスコミが総動員されて、戦争への大きな流れが作られると、人はそちらに流されてしまいます。
 再び、この列島の人々が、白兎に騙されたサメのごとく、大陸へ送り込まれることがないようにするためには、彼らの動きを阻止する国民の強大な大同団結の輪を築かなければなりません。
 

 

<終わりに>

最後に、今回は、古事記を検証しましたが、そこから見えてきたものは、我が国の支配勢力の本性は、唐王朝の残党勢力だったということでした。そして、彼らは再び大陸を制圧して唐王朝を再興しようと企んでもいました。そのために、この日本の人々を徹底的に騙して利用しようとしています。
 しかし、こういった我が国の支配勢力が、今現在、何をしようとしているのかは、彼らの歴史的民族的本性を明らかにしなければ見えてきません。つまり、そこにこそ、歴史を検証する最大の意味があると私は理解しています。

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