つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松(ふかみる)生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡(なび)き寝し子を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の
黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上の [一云 室上山] 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ
入日さしぬれ 大夫(ますらを)と 思へる我れも 敷栲(しきたへ)の 衣の袖は 通りて濡れぬ (2-135) 青駒が 足掻(あが)きを速み 雲居にぞ 妹があたりを 過ぎて来にける (2-136) 秋山に 落つる黄葉 しましくは な散り乱(まが)ひそ 妹があたり見む (2-137) 人麻呂は、同様の歌をもう1首残しています。 唐崎の海の石には、深海松(ふかみる)が生え、そして荒磯には玉藻が生える。その玉藻のように靡き寝ている子を、深海松のように深く思っても、一緒に寝た夜はそんなにもない。その別れに心を痛めながら山道を来ると彼女の袖も見えず、日も暮れてきた。大夫だと思っていた自分も、衣の袖が涙で通るほどに泣き濡れている。 馬で帰路に着いた人麻呂ですが、後ろ髪を引かれる思いで、何度も何度も振り返っていたのでしょう。そして、山道が深くなるにつれて、いよいよ本当に見えなくなるので、最後の別れを惜しんで、彼女の家の方角を眺め、そして、流れる涙を衣の袖で繰り返し繰り返し拭いたのでしょう。 本当に身を切られるような思いが伝わってきます。 しかし、私は、ちょっと疑問に思いました。 先ほどの歌もこの歌も、通説にあっては、どちらも妹、つまりその彼女のことを詠っていると解釈されています。確かに同じような歌ですが、どうして、わざわざ題詞にまで2首と書かれているのかそこのところがよく分かりませんでした。 同じ趣旨のことであれば、1首でもいいと考えられます。しかし、ここでは、あえて2首とされているのには何か意味があるとしか思えませんでした。 これらの2首の次に、或る本の歌ということで、第131首と良く似た歌が紹介されていたので、その歌を見てようやく分かりました。第131首とこの第135首の歌で、その違いは、風景の表現が特にこの際は重要ではないと考えますと、第131首では『寄り寝し妹』とありますが、第135首では『靡き寝し子』となっています。原文では、それぞれ『依宿之妹』と『靡寐之兒』となっています。 つまり、『妻』と『子ども』を詠っていたのだということが分かりました。ですから、『妻』とは、玉藻が寄り添うように一緒に寝たと言っていますが、『兒』とは、さ寝し夜は幾だもあらずと、あまり一緒には寝ていないと異なる表現になっています。 その子どもは、生まれてまだ数ヶ月くらいなのかもしれません。したがって、それぞれ『妻』と『子ども』を詠っていたので2首に分かれていたという訳です。 では、その別に紹介されている第138首の歌ではどういった表現がされていたのでしょう。 そこでは、さらに分かりやすく『我が妻の子』となっています。原文では、『吾嬬乃兒』で、やはり『兒』なのです。人麻呂と彼女の間には子どもが出来ていたのです。 そうしますと、いくら人麻呂が彼女も一緒に都へ連れて帰ろうと思っても、そんな乳飲み子を抱えて石見から都への長旅が出来るはずもありません。ですから、人麻呂は、泣く泣く彼女とわが子を残して自分だけ都へ帰っていったのです。 当時のことですから、いつまた会えるかなど分かりませんし、もう2度と会えないかもしれません。彼女だけだとしても別れるのは辛かったでしょうが、その愛する彼女との間に生まれたわが子を置て帰るのですから、衣の袖が涙で濡れ通るほどに嗚咽してしまうのも無理はありません。 おそらく、人麻呂は、必ず迎えに来ると固く約束をしてその地を後にしたのでしょう。そして、長い間の歌のやり取りの末、ようやく妻とわが子を迎えに旅立つ機会ができたのです。 つまり、その旅立ちの歌があの『柿本朝臣人麻呂覊旅歌八首』でした。 人麻呂が、明石海峡で『恋来た』と詠ったのは、石見に残してきた妻とわが子を思ってのことだったというのが、当方の到達し得た第3巻255首の解釈です。 その人麻呂が、大宝元年に石見国司に赴任し、4年ほどで都に帰り、そして大宝8年の遣新羅使の折りに迎えに来ていたとしますと、およそ3・4年ぶりの再会だったということになります。 ただ、この時、人麻呂は依羅娘子を連れて都に帰ったと考えられますが、立場上ただちに自らの正式な妻ということにはならかったようです。ですから、都の依羅連の養女となったのだという説もあります。石見では、井上という姓だったとも言われています。 どちらにしても、人麻呂は約束を守り、恋焦がれていた妻と子を石見まで迎えに行ったことに間違いはないようです。しかし、遣新羅使の任務もありながら、我妻と子をそのついでにと、迎えに行けるということは、人麻呂は相当な地位にあった人物だということが言えます。 かなり、高い地位でなければ、そんなことは不可能でしょう。人麻呂の人物像が、ちょっと垣間見えてきました。 また、その彼女にも相当な気苦労があったことでしょう。再び会えるかどうかも分からないその当時にあって、人麻呂との愛を貫くことは本当に大変なことだったと思われます。 別れの時、彼女の詠った歌も、そのすぐ後に1首だけ載っていますのでご紹介いたします。 な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ひずあらむ(2-140) |
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