大伴家持は、718年頃の生まれで785年頃に亡くなったとされています。 そして、万葉集には473首もの歌が残され、三十六歌仙の一人でもあり、父は大伴旅人と言われています。746年に越中国国守、758年には因幡国国守といった職種に就いています。 これらのことから、大伴家持なる人物によって万葉集が編纂されたり、多くの歌が詠まれていることに疑問が生じてきました。 家持は、朝廷から派遣されたのかもしれませんが、言ってみれば地方役人といった立場にあったわけです。その家持が、出雲王朝に伝わる数多くの歌や、あるいは各地に伝わる歌など、多くの歌人の歌を掌握して、一つの歌集にまとめ上げるといったことは、かなり困難だと考えられます。 そして、最大の疑問は、万葉集に473首もの歌を残しながら、759年の万葉集最終歌以後、家持の歌は一切残されていません。唯一、『百人1首』に1首ありますが、それがいつの歌なのかは分かりません。 つまり、当時の名歌人と言われる家持は、万葉集第4516首を境に全く歌を残していないということになります。 当時、家持は、42歳と言われてます。歌人としては、ますます円熟味が増し、これからさらに歌を残そうとする年代になります。人は、若い時よりも年齢を重ねるごとに、自分の足跡を残そうとします。しかし、家持は、その歌人としての人生は、万葉集最終歌で終えているのです。 家持が、その第4516首以降にも歌を詠っていたとしたら、759年から785年までの間、それまでと同じくらいの歌を残していることになります。 万葉集を20巻で終わりにしなければならない理由はありません。大伴家持が、その後もさらに歌を詠っていたのなら21巻以降も作れたと考えられます。さらに、通説の通りだとしますと、万葉集を編纂したくらいですから、自らの歌集も残せたはずです。むしろ、自叙伝といった自分の歌集を作ろうと考える方が普通でしょう。 以上のいくつかの疑問は、一つの結論に行き着かざるを得ませんでした。 大伴家持が、言われているような地方役人をしていた実在する人物だとしたら、その大伴家持は歌人ではなかったということになります。 もし、家持なる人物が実在していなかったとしたら、その人名はいわゆる万葉集の中にしか存在しない登場人物、あるいは、ペンネームということになります。 または、後の時代に大伴家持の作品にされたということも考えられます。 言われているような大伴家持なる人物は、万葉集の編纂が出来るような立場にもなく、ましてや万葉集に473首も残すような歌人でもなかったということになります。 『百人一首』に残されている程度の歌は詠っていたのかもしれませんが、万葉集の中心に位置するような歌人ではなかったと考えざるを得ません。 やはり、万葉集の編纂は、柿本人麻呂が、出雲の地に帰り来て、出雲王朝に伝えられていた膨大な和(倭)歌や自らの詠った歌を、万世(よろずよ)に伝えようと、万葉集として残したということでしょう。 そして、人麻呂が、その生涯で、最後に詠ったのが第4516首なのでしょう。 編纂者である人麻呂が亡くなることで、万葉集もその時点で幕を閉じたということになります。 つまり、大伴家持とは、柿本人麻呂自身だったということです。 |
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邪馬台国発見
ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」
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