オーシャン・ドリーム号の悲劇 船 ・・・20年目の夏
23.
 正月がようやく来たと思っていたら、早いもので、あと数日で2月になろうとしていた。

 福山は、いつものように、出雲を目指して新幹線に乗っていた。
 新幹線には、自由に持ち帰ることのできる冊子が置いてあり、そこには、時々古代史や出雲の歴史に関る興味深い特集記事が載っていることがあり、結構、時間つぶしには良かった。
 そうこうしていると、車掌が乗車券のチェックに回ってきた。
 福山は、その車両の後ろから2番目の席に座っていた。
 福山のチェックが終わり、最後部座席の客とその車掌の話す声が聞こえてきた。
 「あっ、押元さんじゃないですか。お久しぶりです」
 「おお、植木君か。元気そうじゃないか」
 「まあ、どうにか首がつながっているようなものです。また、どこに飛ばされるか分かったものじゃありません」
 「そうか。大変だな」
 「今、押元さんは、どうされてますか」
 「いろいろ職を変えたが、今は、携帯電話のショップをやっているよ」
 「そうですか。あの頃は、押元さんところも頑張っておられましたからねえ」
 「俺のいた職場も今はどうなっていることやら、効率や、儲け優先になってしまっているだろうなあ。あちこちで、国民のために闘う労組が、徹底して悪者にされて、潰されていったからな。ま、俺もその時に首にされた一人だがな」
 「労組が頑張っていると、まるで自己のエゴでやっているかのように報道されてしまうこともありますからね」
 「労組のチェックが働かないようになったら、経営者は独裁者になるし、労働者は奴隷にされてしまうよ。その結果、巡り巡って国民にそのしわ寄せがいくことになるんだ。結局、闘わない限り、奴隷の道へ向うしかないんだよ。特に、この日本という国ではな」
 「本当に、そうですよねえ。では、押元さん、お元気で」
 「植木君も、くじけずに頑張れよ」
 その車掌は、次の車両に移っていった。
 『独裁者と奴隷か・・・』
 福山は、彼らの話を聞きながら、しばらく考えていたが、ある一つの流れがあることに気づいた。
 『そう言えば、そうだよなあ。みな、あのオーシャン・ドリーム号の事件以後だ。なるほど、大志野の言っていた始まりだよ。つまり、のろしというわけか』
 福山は、今まで疑問に思っていたことが、また、少しずつほぐれていくように思えた。
 そして、出雲で数々の日程をこなす合間に、市立中央図書館へ向かった。
 書架から取り出した本や、設置されているパソコンで調べている時だった。
 「あっ、福山さんじゃないですか」
 「やあ、これは、佐田君」
 山陰日報社の佐田記者だった。
 「何か調べ物ですか」
 「ああ。1980年代後半の労働組合運動について、ちょっと気になることがあってね」
 「それでしたら、こちらにいい資料がありますよ」
 佐田記者が、福山を別の場所に案内した。
 「僕も、以前、戦後の労働組合運動について調べる機会があったもので、その時、これを参考にしました」
 そこには、いくつかの資料があった。
 「福山さんが、何を調べようとされているのかは分かりませんが、80年代後半という時代的意味においては、社会も労働組合運動も大きな転換期となっています」
 「それは、どういった」
 「それまでは、それぞれの単産や全国ネットを持つ組合ごとで、結構活発な戦いを繰り広げていました。ストライキも数多く組まれています。しかし、80年代後半になりますと、それが一気に減少しています。最近では、ストライキのニュースなど、ほとんど耳にすることもありません」
 「そうだなあ」
 「これを見てください」
 佐田記者が、ある資料の年表を指し示した。
 「80年代の後半に、国鉄・電電公社・専売公社という3公社が、民営化されています。その上、国鉄や電電公社は分割されたことで、労働者がばらばらにされてしまいました。特に労働組合の運動に関っていた労働者の多くが首切りにあっています。ですから、わが国の労働運動の牽引的役割を果たしていたとも言える国労は実質解体的打撃を受けています。つまり、その民営化は、国の責任の放棄、また、そういった公的機関としての役割を儲けの対象にすると同時に、さらに、闘う労働者の排除といった数々の意味を持ったものだったと言えるでしょうね」
 「なるほどね。佐田君、かなり調べたんだねえ」
 「ちょっと、そういう機会があったものでね。その労働運動の後退は、労働者だけでなく、国民にも大きな影響を与えることになってしまいました」
 佐田は、また別の資料を、福山に見せた。
 「これは、健康保険に関わる資料ですが、労働者が、病気になると大変な金銭的負担が生じます。ですから、労働者向けに健康保険が導入されたのですが、それはいつ頃の事だと思いますか?」
 「どうなんだろう。戦後からだろうか」
 福山は、にわかには分からなかった。
 「それがですよ、1927年なんです」
 「そんな古くからあったんだ」
 ちょっと、福山は驚いた。
 「それも、当初から、その給付対象となる労働者本人の窓口負担は無料だったんですよ」
 「へえ、そうだったんだ」
 福山は、さらに驚いた。
 「まあ、健康保険とは、もしもの時の備えですから、日頃、高い保険料を支払うが病院にかかる時には負担がいらないというのが、当然ながら本来の趣旨ですよね」
 「そうだよな」
 「それは、その後も維持されていました。そして、1938年には、任意ではありますが、国民健康保険法も制定され、戦後1958年には、世界に誇る国民皆保険制度が確立されます。その後、国民の声に押されて1973年には、老人医療の自己負担が無料化され、福祉元年とまで言われていました」
 「そういえば、そういった時代もあったよなあ」
 福山は、その頃を思い返していた。
 「その頃が、国民にとっては一番幸せな時代だったとも言えます。ところが、間もなくして、財界からの強力な巻き返しが始まります」
 「どういった?」
 「まず、70年代後半に、労働者本人の窓口負担が導入されます。最初は、初診時に200円だったのですが、それが600円、そして、800円と徐々にアップされていきます。つまり、財政悪化を口実に、最初は、まあそれくらいならと自己負担に慣れさせ、それを拡大させていったのです。さらに、1984年に1割負担に、1997年には2割負担に、2003年には3割負担にまで増やしてしまいました。また、1973年に無料化された老人医療も、1983年に有料化され、その後、自己負担が増やされていきます」
 「なし崩し的な負担増だな」
 「私は、それを可能にしたのが、労働運動の後退にあると見ています。まあ、私だけじゃないとは思いますが」
 「なるほどねえ」
 「一方、国民健康保険の加入者にも、同様に大きな負担増がかけられました。1980年代半ばまでは、国保会計への国庫負担率はおよそ5割でした。ところが、国は、80年代後半に一気に3割台にまで減らし、その後10数年で25%にまで減らしてしまいました。国の負担を半分に減らしてしまったのです。それにより、当然ながら国保財政は大幅に悪化します。ところが、そのつけは、一方的に国民に押し付けられ、80年代半ばまでは年間の保険料が一人当たり4万円ほどだった負担が、どんどん引き上げられ20年ほどで8万円を大きく超えています。それによって、滞納者が増加し、差し押さえまで地方自治体がするようになっています」
 「それならば、むしろ、一番の滞納者は、国じゃないか」
 「本来、国民が差し押さえなどされるべきでは、ないはずです」
 「なるほど。80年代後半から、国民に対する攻撃が強められていったというわけだ」
 「そうなんです。ですから、そういった労働者や国民に対する攻撃に労働運動が、大きな闘争を組めないように、徹底して潰されてしまいました。分割民営化は、経営体だけの問題ではなく、国民全体にかけられた攻撃の一環でもあったようです」
 「労働運動の反撃を封じ込めるものだったということか」
 「それは、健康保険にとどまりません。正規雇用から非正規雇用への切り替えも80年代後半から進み、90年代に入ると2割が、2000年代になると3割が非正規雇用となっています。これは、もうまともな労働体系とは言えません。資本の側は、賃金だけでなく、保険料や厚生年金の負担も減らせるのですから、儲けは膨らむばかりですが、労働者の権利や待遇は、戦前以下になってしまったと言ってもいいかもしれません。本当にひどいものです」
 「ところが、それに対抗する労働運動が戦えるような状況にないということか」
 「一部では、それに対抗しているのでしょうが、数々あった労働組合のナショナルセンターが、80年台後半に統一されました。しかし、その統一によって、それまで、それぞれで戦っていたものが、統一されることで、逆に戦いが後退しているようにも見えます。むしろ、労使協調といった流れが、定着したとも言えます」
 「それによって、資本の側には、大きな利益がもたらされ、一方、労働者の側は、貧困が加速してしまった。労働者は、過労死かワーキングプアといった、ほとんど奴隷のような状態だよ」
 「最近の10年間を見ても、大資本の儲けは2倍、役員報酬は3倍、株主配当は2・5倍にもなり、内部留保は200兆円を大きく超えているとも言われています」
 「一部の人間だけが肥え太り、多くの人々は貧困の極みにあるということだ」
 「ところが、その統一された労働運動は、労使協調といった路線に変わりはなく、こういった深刻な状況を打開するどころか、容認しているかのようにも見えます。むしろ、そのための統一だったのかもしれません」
 「そう言えば、こちらに来る新幹線の中で、『闘わない限り、奴隷の道へ向うしかない』と言っていたが、まさしくそんな状況だ」
 「そして、その出発点が、80年代後半にあるわけです」
 「なるほどなあ。しかし、佐田君、よく調べているなあ」
 「私の職場でも労働組合はあるのですが、なかなか難しいところがあります。そういったこともあって、一度、調べたんです。ただ、状況が把握できたとしても、一人ではどうにもなりません。労働者の多くが、よく考えて、まずは戦う意思を持つことではないかと、今は思っています」
 「一人の力なんてたかがしれているけど、多くの人々の力が結集することでこそ、労働者は大きな力を持つわけだ」
 「資本の側は、それを良く知っているからこそ、労働者をばらばらにしたり、労使協調路線を画策したりするんでしょうね」
 「佐田君、今日は勉強になったよ。もう一度、自分でも良く調べてみるよ」
 「参考になったらうれしいです」
 「もう、十分すぎるくらいだ」
 「では、これから、取材があるので失礼します」
 「また、よろしく」
 佐田記者は、福山に軽く会釈をして、図書館を出て行った。
 福山は、改めて80年代後半の持つ意味を考え直していたが、大志野が言っていた『得』をした勢力なるものの姿が、次第に見えてきていた。
 そして、出雲で予定していた新年会も盛況に終えると、黒岩と会う日を相談した。

     古代史      トップ      後ろ      次


邪馬台国発見

ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

国産ローヤルゼリー≪山陰ローヤルゼリーセンター≫

Copyright (C) 2011 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.