オーシャン・ドリーム号の悲劇 船 ・・・20年目の夏
4.
 オーシャン・ドリーム号の沈没事故の後、ほどなくして福山はT新聞社を退職した。そして、しばらくして、黒岩も本社に移動となり、それ以後二人が顔を合わせることはなかった。

 それから、20年の時を経て、先週、突如、黒岩から福山に会いたいとの連絡が入った。
 たとえ20年の歳月が過ぎようとも、あの事故を取材した時のことは、忘れようにも忘れることはできなかった。
 もちろん、黒岩のことも忘れてはいなかった。
 番組の中でも福山が話したように、あの事故には、あまりにも不可解なことが多かった。
 しかし、それらが、何一つ解決されることもなく調査は終結し、太平洋の深海に沈んだ船体と同じように、その謎や疑問も深い闇の中に消えたままとなってしまった。
 いったい、あの日、オーシャン・ドリーム号に何が起きたのか。
 爆発物とは、いったいどんな物だったのか。
 どうして、その事故現場の特定が翌日の朝までかかったのか。
 福山だけでなく、当時、多くの人々が疑問に思っていたことだろう。
 だが、肝心の船体は沈み、ほとんどそういった疑問の解明に至る証拠となるような物は残されていなかった。
 さらに、黒岩が聞いた「米軍が救助に向かっている」というあの情報はいったい何だったのだろう。
 ただの誤報だったのだろうか。
 すると、その疑問を紐解く一端が、20年後の今になって、ようやく明るみに出たのだ。
 黒岩は、最近、米軍内の情報誌が、オーシャン・ドリーム号の沈没に関わる証言を載せていたことを知った。
 そして、黒岩は、それをただちに取り寄せた。
 そこには、その当事者でなければ知りえない、数多くのことが述べられており、オーシャン・ドリーム号の沈没は、事故ではなく「事件」だということを、20年前に感じたその思いに間違いはなかったと、黒岩は、その時改めて思った。そして、当時、一緒に取材をした福山に連絡を取った。
 先週、福山が、黒岩から聞いた話では、当時巡洋艦のナビゲータの任務についていたA大佐(当時中尉)は、「他言無用」の命令を受けていたが、20年を経た今に至り、その時のことを伝え残さなければという思いにかられ、公表するに至ったとその動機を述べている。
 A大佐の証言の主な内容は以下のようなことだった。
 『私(当時A中尉)は、その日の訓練を終え、横須賀ベースへ帰還途中の巡洋艦にあった。
 そして、午後6時30分を過ぎた頃、緊急事態を知らせる信号を受信した。さらに、見張りの隊員からも南西の方向に激しい閃光を見たという報告が入った。我々は、横須賀ベース、あるいは横田基地とも連絡を取り、それがハワイへ向かう民間客船オーシャン・ドリーム号からの緊急事態宣言だと確認した。
 その航路からすると、見張りの隊員が見た閃光はその客船のものだと判断し、ただちに救助へと向かうと横須賀ベースに伝えた。
 そして、およそ1時間後、横須賀ベースから、すでに自衛隊が救助に向かっているので帰還しろとの命令がきた。
 間もなく、その海域に至るところだったので、我々もそれに協力できると伝えたが、自衛隊が救助に向かっているので即刻帰還せよとの命令に変更はなかった。
 したがって、我々は、再び進路を横須賀ベースへと切り替えた。
 そして、帰還後、司令部へ報告に行くと、副司令官K大佐が今回のことは一切他言無用だと言った。その口ぶりから、何らかの重要な意味を持っていると感じた。
 とにかく、その日の任務を終えて宿舎に戻ると、日本のテレビで、オーシャン・ドリーム号は沈没したという大惨事に至っていることを知り愕然とした。
 しかし、自衛隊が救助に向かっているということだったので、できるだけ多くの人が緊急避難し、救助されるようにと願いながらその日は休んだ。
 次の日のニュースを見て、さらに唖然としてしまった。
 ほとんど、生存者は絶望的だと言っている。
 その上、夜間だったということもあり事故現場が特定できず、それが翌日になってようやく発見に至ったという報道で溢れかえっていたのだ。
 我々は、その海域へ近づいていたし、自衛隊も向かっていると報告があった。
 それなのに、一晩中、事故現場を捜索していたとはどういうことだと、理解に苦しんだ。
 事故現場は、ほぼ特定できていたはずであるし、あの付近は、米海軍の訓練海域であるから、他の軍艦もいたはずである。いくらでも、救助に向かえる船はあったし、事実、我々も向かっていた。
 一晩中、どこを探していたというのだろう。
 そこには、何らかの秘匿されていることがあると私は感じた。
 だが、次の日から、別の任務に就き、沖縄へ移動してしまった。
 あるいは、その事故に起因する移動だったのだろうか』
 A大佐の証言の主な内容はそういったところだった。
 A大佐だけでなく、福山も、黒岩からその話を聞き、愕然とした。
 あの日、黒岩が耳にした「米軍が救助に向かっている」という情報は、本当のことだったのだ。
 しかし、当時、黒岩とともに、そのことを主張したにも関わらず、一切記事にすることは許されなかった。
 そして、福山は、言い知れぬ憤りから、T新聞社を退職した。
 黒岩も、同じようなことを言っていたが、せめて黒岩には残ってこのことを調査し続け、そして伝え残して欲しいと彼を説き伏せた。
 自らは辞めると言いながら身勝手なことだとは思ったが、それがわずかに残された福山の希望でもあった。
 黒岩は、福山の身勝手な言い分に怒ったが、それは無理もないことで、以来、お互い、音信不通となってしまった。
 しかし、あまりの驚きの証言が出現したことで、黒岩も福山にコンタクトを取ろうとしたのだ。
 福山は、その再会を喜び、また黒岩がその情報を伝えてくれたことに深く感謝した。
 黒岩は、引き続き調査を続け、今日、再び会うことを求めてきた。
 福山は、それを断るはずもないし、福山もぜひとも会いたいと答えた。

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