前方後円墳は、出雲と九州の統合の象徴!

○と△との合体

前方後円墳(図1)

 一般的に言われている「前方後円墳」ですが、その形状は、「円墳」部分と「方墳」部分との合体のように思われているようです。その名称は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀始めに、『山陵志』で初めて使ったとも言われています。
 しかし、その「円墳」部分は、円そのものですが、「方墳」とされる部分は、決して方形ではありません。正方形でも長方形でもないのに、どうして「方墳」なのでしょう。
 では、上の(図1)をご覧ください。
 多くの「前方後円墳」を検証してみますと、そのほとんどが方墳部分の二つの角は、直角ではなく鋭角になっています。 そして、そのラインを延ばしていきますと、円墳の円周上で交差しています。中には円の中心で交差しているものもあるようですが、ほとんどは、円周上のある点で交差し、それによって二等辺三角形が作られています。
 つまり、まず、ある点を中心とする円(A)を描きます。次に、その中心点と円周上のある点を通るような垂線を持つ二等辺三角形(B)を重ねますと図形(C)ができます。これこそが、前方後円墳と言われている形状(D)となります。
 したがって、前方後円墳の本源的意味は、○と△の合体にありました。
 では、その○と△は何を意味しているのでしょう。


○は女性、△は男性を象徴

カゴメ紋(図2)


 では、次に上の(図2)をご覧ください。
 これは、カゴメ紋、あるいはダビデ王の紋章とも言われているユダヤ人のシンボルでもあります。この紋章も二つの図形の統合になっています。上に尖った正三角形と、それを逆にした正三角形を重ね合わせてできています。
 それでは、この二つの図形が何を意味しているのでしょうか。上の図の(A)は男性を、そして(B)は女性を象徴しているとも言われています。つまり、ユダヤの紋章とは、男性と女性の統合・合体を意味していたというのです。それが、概念としての男女なのか、ある特定の男女を意味しているのかまでは分かりません。
 しかし、ここから大きなヒントを得ることができました。つまり、「前方後円墳」が○と△の統合・合体にあるのなら、その△は同様に男性を象徴とし、○が女性を象徴としていると考えられるのです。
 むしろ、(図2)の(B)よりも○の方がより女性的だとも言えます。
 では、「前方後円墳」が男性と女性の統合・合体を象徴としているとしたら、それが何を意味しているのでしょう。
 この列島の各地のみならず、朝鮮半島にまで数多く残る「前方後円墳」の造られた時代を振り返ってみましょう。


「前方後円墳」の造られた時代とは

 「前方後円墳」が造られた時代は、主に3世紀から7世紀で、時代区分としては「古墳時代」に相当します。つまり、「前方後円墳」が造られた時代が、「古墳時代」というわけです。その当時の時代背景は『歴史年表2』をご覧ください。
 2世紀半ばから、この列島では「倭国大乱」という大きな戦乱の時代が続き、190年頃にその戦乱を征したスサノオ尊を始めとした出雲の勢力は、宮崎の西都原にいた「卑弥呼」を女王として統一王朝を築きます。
 そして、「古墳時代」に入り、「前方後円墳」が造られるようになります。
 「卑弥呼」の国が国家的象徴であるところの「女王国」と描かれ、一方、スサノオ尊を始めとする男王、つまり出雲(やまと)にいた実質的支配者が、「倭王」あるいは「大倭王」として、中国の史書「三国志魏書(魏志倭人伝)」や「後漢書」に描かれていました。
 その統一王朝は、この列島において大きく発展し、朝鮮半島をもその勢力下におくほどになります。
 5世紀頃の『倭の5王』の姿が、「宋書」に残されていました。
 そして、その統一王朝は、663年秋、唐王朝によって征服され、その歴史までが抹殺されてしまいました。
 つまり、「前方後円墳」の造られた時代とは、スサノオ尊と卑弥呼により統一王朝が築かれた頃に始まり、その統一王朝が滅ぼされるまでで、まさしくその出雲王朝の時代に相当します。
 したがって、「前方後円墳」とは、この列島のみならず朝鮮半島にまで大きな勢力を築いていた、『出雲王朝』、あるいはその『統一王朝』の勢力の墳墓だったということでもあります。
 これらのことから、「前方後円墳」の意味も見えてきました。


「前方後円墳」の造られた時代とは

 「前方後円墳」が、○と△による統合で、出雲王朝の時代の墳墓だということから、その形状の意味するところも見えてきました。つまり、○が女性を意味しているとしますと、すなわち統一王朝を築いた女王「卑弥呼」を意味します。そして、△が男性を意味しているということは、同様に「スサノオ尊」を意味していることになります。
 したがって、「前方後円墳」によって葬られている人物は、スサノオ尊と卑弥呼の血を受け継いでいることを意味します。
 ですから、「前方後円墳」とは、出雲の勢力と九州の勢力の統合の象徴だったのです。
 最近、近畿にある「箸墓古墳」が、「卑弥呼の墓」だとしてマスコミを賑わせていますが、その墳墓は「前方後円墳」ですから、「卑弥呼の血」を受け継いでいることは考えられますが、「出雲の血」も受け継いでいますから、「卑弥呼の墓」ということはあり得ませんし、いわゆる『魏志倭人伝』や『後漢書』を見れば、「卑弥呼の墓」が近畿に存在し得ないことは、簡単に分かることです。
 この列島の征服者スサノオ尊にとってみれば、先住の勢力である「卑弥呼」を国家的象徴として奉ったことになります。
 その概念は、それぞれの国名としても残されました。国家的象徴である「卑弥呼」の国を『一国』とし、実質的支配者であるスサノオ尊の国は『大国』としました。
 つまり、『一』と『大』の統一・合体で『天』の文字が構成されます。そこには、「卑弥呼」と「スサノオ尊」の統一によって、この世界であるところの『天』が築かれるという概念があったと考えられます。『一』は『大』の上に位置します。この列島の支配者であった「スサノオ尊」は、あえて、その『一』の下に位置する『大』を自らの国名としたのです。
 スサノオ尊の勢力は、製鉄の民族ですから農耕はできません。一方、先住の勢力は、農耕はできますが、製鉄の技術は持ち合わせていません。出雲の勢力は、製鉄の技術を基本として、農耕の器具や各種鉄製の道具を提供し、農耕の生産に貢献します。また、製鉄やその加工のためには山々の木々をどんどんと切り倒しますが、その後で植林も欠かさず進めました。この列島の山々に、原生林ではなく手入れのされた森林として、豊かな山林が残されてきたのには、彼らの努力があったからなのかもしれません。
 そして、列島各地を結ぶ街道の整備もされていきますが、そういった作業に鉄の道具は欠かせません。また、その彼らの墳墓である巨大な「前方後円墳」も鉄の道具があればこそ可能だったことでしょう。製鉄・土木建築の勢力と、農耕民族の統合が出雲王朝の基本で、その勢力の墳墓が「前方後円墳」だったのです。
 その統一王朝は、全国津々浦々で、「神」として奉られていきました。その当時にあっては、鉄を生産する技術を提供してくれる彼らは、まさしく「神」だったのでしょう。
 「鉄を制する者は国を制す」ということなのでしょう。
 その彼らを「神」として奉ったのが「神社」でした。そこには、『鳥居』が築かれました。その形状は、出雲王朝、あるいはその統一王朝の国家的象徴である『天』を象っています。『鳥居』を通ることは、神聖なる「神」、そして、国家的象徴の『天』の地に踏み入ることでもあったのでしょう。全国には、その統一王朝の勢力を意味する「前方後円墳」で奉られ、その上に神社が築かれているというところも見られます。「前方後円墳」と「神社」は、同じ勢力のもの、同じ象徴だったということなのでしょう。ですから、その前方後円墳の形状も、『天』を象ったものなのかもしれません。
 そして、彼らは、663年秋、唐王朝によってことごとく殲滅させられてしまいました。それ以後、この列島の人々は、唐王朝の支配下で奴隷のごとくに虐げられることになってしまいました。
 この列島に築かれた、農耕民族と製鉄民族との統合の歴史は、ことごとく踏みにじられ、歴史からまで抹殺されてしまいました。
 意図的に消された歴史なら、あるいは捏造された歴史なら、元に戻さなければいけません。
 ぜひ、ご一緒に、わが国の真実の歴史を取り戻しましょう。





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