近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (3-266) 前述した万葉集を紹介した書籍を読む中で、最大の疑問となったのは第2首の国見の歌でした。そして、もう一つの大きな疑問は、人麻呂の古(いにしへ)を偲ぶ歌でした。 通説では、人麻呂が、近江の海、つまり琵琶湖のほとりに佇んで、滅んだ近江大津宮を偲んでいたとされています。つまり、天智天皇が近江大津宮を造営するも、壬申の乱で大海人皇子、後の天武天皇に滅ぼされてしまいますが、そのおよそ15年後に人麻呂がその大津宮や天智天皇を偲んで詠ったというものです。 しかし、15年も経って後に偲ぶくらいですから、人麻呂と近江大津宮とかなり深い関係があってしかるべきですが、それは全く分からず、それどころか、人麻呂自身がどんな人物だったかも謎だとありました。 分からないことばかりのようですが、人麻呂と近江大津宮との関係も大津宮でどういった地位だったのかなど一切分からないとのことでした。 では、そんなに分からないことばかりなのに、どうして人麻呂がその大津宮を偲んでいたということだけは確かなのでしょう。 それに、10年一昔とは言うものの、この『古(いにしへ)思ほゆ』という表現が、そんなに近い過去だけを意味している表現には思えません。その地域やそこに暮らす人々を含め、もっと、何か歴史的な深い事情があるように思えるのですが、琵琶湖にそんなにさまざまな歴史が残されているとも思えません。 人麻呂は、その過去を思うと『心もしのに』、つまり、胸がしめつけられるほどに苦しくなると言っています。それほどまでに、悲痛な出来事や人麻呂の胸を締めつけるほどの歴史があったということになります。それが、壬申の乱だということになっています。 では、人麻呂がその近江大津宮とどういった関係があったかと言えば、何も分からないということです。どういうことなんでしょう。一体人麻呂は、琵琶湖でどんな古(いにしへ)を偲んでいたのでしょう。人麻呂とは、どんな人物なんでしょう。 第2首とともに、この第266首に対する数々の疑問も、私を古代史探索への道に引き込んでいきました。 |
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邪馬台国発見
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