万葉集に秘められた真実!
柿本人麻呂、『愛』を詠う  9

人麻呂、別れの歌の地に至る ・・・益田市 須子八幡宮

石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか(2-132)

 人麻呂は、愛しい妻と幼い乳飲み子を残して、都へ戻ることになってしまいました。その別れの折に、あまりにもつらく悲しい思いを歌にしたためました。
 先にご紹介しましたが、人麻呂は、石見の高角山で上記の歌を残しました。
 私は、この歌がどこで詠まれたのか、ずっと気になっていたのですが、なかなか現地にも行けず、特定できずにいました。必ず、人麻呂が詠い残した場所があるはずです。その場所を見つけたいと長年思い続けていました。
 そして、ようやく念願が叶い、2018年3月、益田の地に行くことができました。
 人麻呂が、詠んだ高角山は、浜田市など、他にも候補地はありました。しかし、当時、石見から都へ向かうには、益田から中国山地を超えて広島に到るルートが最も可能性が高いと考えていました。広島には厳島神社など瀬戸内にあっては大きな拠点でもあります。
 ですから、高角山は、益田周辺に存在しているだろうと想定して、益田に向かいました。
 しかし、益田周辺から広島に抜けるルート上に、益田を眺めることができるような山がどこにあるかなど皆目見当もつきません。そして、その山は、高角山と名付けられるに相応しい姿をしているだろうとも考えていました。つまり、角のように二つの山がとんがっているような光景があるだろうと予想していました。
 まずは、益田から現国道191号線のルートを調べることにしました。自分の予想としては、峠越えをするときに、その道から益田の街並みを見ながら、これで見納めだという思いで、見えるはずもない妻や子に向けて袖を振り続ける人麻呂を想像していました。
 しかし、そのルートには、益田の街並みを眺めることのできるような場所は見当たりませんでした。あるいは、道のそばの山を登れば、街並みを見ることはできるかもしれませんが、帰路にある人麻呂がちょっと登るにはあまりにも高い山々でした。そのうえ、角と名付けられるような景色でもありませんでした。
 ということで、国道191号線より西に、9号線のルートがあるので、そちらを調べてみることにしました。その9号線のルートは、途中で山口県方面へ行く9号線のルートと広島へ抜ける国道488号線のルートに分かれています。そのルートは、高津川にそって南西に向かう地点を過ぎると街並みが見えなくなり山の中の道を進むことになります。つまり、その辺りが益田の街並みの見納めの場所でもあります。
 私は、この周辺は歌のシチュエーションにとても相応しいと感じました。もうこれで見納めだということで、このあたりで詠まれた可能性が非常に高いと思い、辺りを見渡しました。すると、小高い山が二つ見えました。まさしく角ではありませんか。そして、右側に見える山には、須子八幡宮という神社がありました。そこは、決して大きな神社ではなく、何らかの拠点として残されているように私には思えました。私は、目指す場所にかなり可能性が高いと思い、その神社に向かいました。
 その神社は、その山の中腹にあって、そんなに上まで上がりませんから、帰路にある人麻呂が、ちょっと眺めるには手ごろな場所のように思えました。
 その神社の場所から、益田の街並みを眺めますと、まさしく上記の歌のシチュエーションにぴったしの風景を眺めることができました。
 周辺の樹木の間からは、益田の街並みが見え、人麻呂がここから妻や子に最後のお別れをした場所に間違いないと思えました。そういった重要な場所だということで、神社が残されているのかもしれません。
 人麻呂は、そこから最後のお別れをして、再び馬に乗って都へと向かったのでしょう。その場所から続く道は、すぐに益田の街並みが見えなくなります。しかし、人麻呂は、心の中では、何度も何度も振り返りながら、都へと向かったことでしょう。
 あまり、時間はなかったのですが、何とか、人麻呂の歌の地点を特定することができました。人麻呂の悲痛な思いに触れることができました。
 では、その歌の詠まれた場所の映像をご紹介いたします。



角のように2つの山がありました。
その右側の山に神社があります。


これが、神社から見える益田の街並みです。
ここに立つと当時の人麻呂の思いに耽ることができます。
          

                       


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