大陸から渡来した4大民族 大蛇

5)東胡が渡来・・・列島を隷属下に

渡来の痕跡・・・銅鐸・4隅突出型古墳
 紀元前205年、匈奴に滅ぼされた東胡は、王も殺され、その地に残った者は匈奴の奴隷とされてしまいます。また、鮮卑山に逃れた者は鮮卑族、烏丸山に逃れた者は烏丸族と呼ばれますが、両者とも匈奴の隷属下に置かれます。
 この頃、東胡の残党は、朝鮮半島を経て、この列島にもやってきます。
 「山戎」に次ぐ、民族的渡来ということになります。
 それに相当する時期、この列島では、それまでと全く異なる文化が生じています。
 つまり、この東胡の渡来によって、この列島に大きな変化が起きていることが分かります。
 その一つが、4隅突出型墳丘墓です。
 彼らは、在来の勢力とは異なる民族であることを、埋葬方法にも残したと考えられます。
 もう一つの変化と痕跡は、銅鐸です。
 東胡の渡来の時期に、小型銅鐸が造られ始めています。
 このように、東胡の到来の時期と、4隅突出型墳丘墓、銅鐸の製造の始まる時期がほぼ一致しているのです。
 彼らは、北東アジア・満州地域から東へ逃げ、そして朝鮮半島を南下しますと、先に検証しました朝鮮半島東側ルートを渡航することになります。
 そのルートで渡来しますと、鳥取県中部の東郷湖周辺に至ります。
 このエリアには、彼らの渡来の痕跡が残されています。
 まずは、その近くに「馬ノ山」という山がありますが、名前の通り、その山の丘陵では古くは馬が飼育されていました。それは、渡航してきて、その地から山陽や近畿方面へと移動していくとなると険しい中国山脈越えとなりますし、たくさんの荷物を抱えての長旅は大変です。ですから、その移動手段としての馬だと考えられます。つまり、今で言う駅前レンタカーというわけです。
 そして、その近くの「長瀬高浜遺跡」から、およそ10センチの小型銅鐸が発見されました。
 銅鐸の初期の物ですが、その銅鐸の分布と、渡来してきた人々がその地から近畿方面へ移動していったエリアが重なっています。
 つまり、東胡の勢力が、渡来し移動していく時期とエリアが、その銅鐸の分布と重なっているということです。
 また、東胡は、現在、わが国では「とうこ」と読まれていますが、中国では、「Donghu」、「トゥングー」と読みます。匈奴に追われた人々は、朝鮮半島を南に下りこの列島にもやってきますが、朝鮮半島から北東方面へも逃避していきます。その人々が、「ツングース」だとも言われています。 
 そして、彼らがこの列島に渡来したその地は、東郷湖ですが、東郷は、まさしく「トゥングー」です。 

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