大陸から渡来した4大民族 大蛇

5)東胡が渡来・・・列島を隷属下に

東胡が勢力を強め、この列島の人々を隷属下に
 紀元前205年、匈奴に滅ぼされた東胡は、王も殺され、その地に残った者は匈奴の奴隷とされ、派生した鮮卑族・烏丸族も匈奴の隷属下に置かれます。
 一方、この列島にもやって来た東胡の残党は、次第に勢力を大きくし、在来の勢力を支配下に置くようになります。
 それを示すかのように、1世紀末頃から、彼らの痕跡を意味する銅鐸が大型化します。
 そして、期を一にして4隅突出型古墳も大型化します。
 つまり、この列島にやってきた東胡の勢力が、強大化したことが、そこから伺えます。
 先に検証したように、この列島には、「山戎」の勢力が、やってきていました。彼らは、島根半島を中心としたエリアを都としていたとも述べました。
 東胡の勢力は、その地を征服してもいるようです。
 出雲のエリアには、大型の4隅突出型古墳が密集しています。
 また、斐伊川上流からは、この列島で最良の鉄鉱石が産出されます。
 つまり、製鉄の勢力にとっては、最も重要な拠点でもあります。
 あるいは、山戎の勢力も、製鉄のためにその地を都にしていたのかもしれません。
 どちらにしても、東胡は、製鉄の民族ですから、その重要な製鉄の拠点を自らの支配下にしたと考えられます。
 また、そこで得た鉄の力で、この列島全域を支配下にしていったのかもしれません。
 「鉄を制する者は国を制す」
 東胡が、この列島を支配下にしたことは、中国に残されている後漢書からも伺えます。
 
 安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見

 安帝の永初元年(107)に、倭國王の帥升等が、生口百六十人を献じて、朝貢しています。
 倭国王としていますから、一部のエリアの王というよりも、この列島全域を支配していたということだと考えられます。
 107年といいますと、4隅突出型古墳や銅鐸が巨大化している、つまり、東胡の勢力が、この列島で勢力を強めていた時期に相当します。
 つまり、後漢書に登場している「倭國王帥升」とは、この列島を支配下にした東胡の勢力の王だと考えられます。
 そして、上の後漢書の記述で問題となるのは、倭国の王が、奴隷を160名も献上しているということです。数名の「生口」を献上したという記述はありますが、100名を超えるというのは他に見ることはありません。中国王朝の都に連行するだけでも大変です。
 ここからは、いくつかのことが考えられます。
 まずは、間違いなく、ほぼこの列島全域を支配下にしていたということです。
 あるいは、その完全支配を確立したことの報告だったのかもしれません。自分こそが、倭国の王で、列島を支配下にしていることを知らしめる意味の160名だったとも考えられます。
 しかし、それは、逆に、それぞれの国々からは尊敬や崇拝はされていなかったということの証明でもあります。
 ほぼ、すべての国々から男女1名ずつを拠出させるとしたら、相当の支配力や強制力を行使してのことでしょう。支配下に置かれた国々にとっては、大きな怒りや悲しみをもたらしていたと考えられます。さらに、そんな東胡の勢力ですから、毎年奴隷を拠出させていたのかもしれません。また、人だけでなく各種生産物なども拠出させられていたことでしょう。そんな支配は、大変な苦痛でしかありません。
 つまり、「山戎」の渡来は、この列島に福をもたらし、福の神「えびす様」として後々にまで奉られるほどの歓迎と感謝が、各地に残る「えびす神社」には伝えられています。
 しかし、東胡の勢力の渡来は、決してこの列島の人々に福をもたらすものではなく、恐怖や悲しみ、そして苦痛の隷属だったことでしょう。
 ですから、東胡を奉るような神社や遺跡は、どこにも見出すことはできません。

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