大陸から渡来した4大民族 馬

4)胡の民族・・・ルーツは中東

東胡が、匈奴に敗れ「鮮卑」と「烏丸」に
 紀元前4世紀頃、モンゴル地域を中心として、北アジアに遊牧騎馬民族の匈奴が強力な勢力を築きます。
 そして、その東には東胡が、西には月氏が位置していました。
 彼らは、牧畜ができても農耕はできないので、南下して農民を馬で連れ去り、彼らに農耕をさせていました。
 そういった中、紀元前221年に秦が中国を統一し、戦国時代が終わります。
 史上初めて皇帝を称した秦の始皇帝も、騎馬民族の被害に手を焼き、その対策に馬が乗り越えられないような高さで万里の長城を築きました。
 その騎馬民族の中でも大きな勢力を築いていた匈奴の王、頭曼単于(とうばんぜんう)は、わが子冒頓(ぼくとつ)を後継者としていました。しかし、後妻に子どもができると、頭曼単于は、その子の方を後継者にしようと考えるようになります。そうしますと、冒頓が邪魔になってきます。
 単于とは、匈奴の言葉で君主、皇帝を意味します。
 そして、頭曼単于は、西に位置する月氏に和平のための人質として冒頓を送り込みます。
 嫡子を差し出したことで油断していると見た頭曼単于は、すぐに月氏を攻撃します。しかし、その本心は、匈奴に裏切られたと冒頓を殺害することを見越してのことでした。
 冒頓は、その危機を察知し、戦乱の中を間一髪のところで脱出して帰国します。
 頭曼単于は、見込みがあると受け入れますが、冒頓は、いずれ殺されると考え、紀元前209年にクーデターを起こします。(歴史年表参照)
 父やその親族、側近を抹殺し、単于に即位します。
 すると、このことを知った東胡は、即位直後の若輩だと甘く見て、父頭曼の馬を要求します。
 部下たちは、駿馬は民族の宝だから与えてはいけないと言いますが、冒頓単于は、馬は何頭もいるし、隣国のことで馬一頭を惜しむべきではないと、東胡にその馬を贈ります。
 それに気を良くした東胡は、さらに冒頓単于の后の中から一人を要求してきます。
 部下は、東胡に侮辱されていると攻め入るように言いますが、冒頓単于は、后は何人もいるし、隣国のことで后一人を惜しむべきではないと、東胡に后を贈ります。
 そうしますと、さらに増長した東胡は、両国の境界となっている土地の領有を求めてきました。
 遊牧民族で土地に執着が薄いこともあり、部下が荒地など与えてもいいでしょうと言うと、冒頓単于は怒り、「土地は国の根幹だ。今与えて良いと言った者は切り捨てろ」と、直ちに馬に乗って東胡に攻め入ります。
 一方、東胡は、完全に油断していたので、匈奴に攻められ、物は奪われ、東胡の王は殺され、他の者は奴隷にされ、また多くの者は敗走します。
 この時、敗走した東胡の勢力のうち、鮮卑山に逃れた者が鮮卑族、烏丸山に逃れた者が烏丸族と呼ばれています。
 その後、冒頓単于は、他の民族も攻め入り、西の月氏もさらに西域へ追いやり、モンゴル地域を中心に強大な匈奴の勢力を築きます。(歴史地図参照)
 漢王朝も、その強大な匈奴に太刀打ちできず、毎年多くの贈り物を届けるほどでした。

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