大きな勢力を誇った匈奴も、烏丸や鮮卑からの復讐攻撃を受けるようになり、さらに、イナゴ・バッタの被害や飢饉にもみまわれ、その地から逃亡せざるを得なくなります。 それに追い討ちをかけるように、後漢は、89年から91年にかけて断続的に攻撃をしかけます。 また2世紀になりますと、北アジア一帯は、鮮卑の支配するところとなります。 そういった中、匈奴の一部は、それらの攻撃や被害を逃れて、この列島にまでやってきます。 彼らは、朝鮮半島東側からのルートでこの列島に到達し、各地に移動していったと考えられますが、ある地域にその中心を築きます。 それは、今は「蒜山」と表記されていますが、古くは、「日留山」と書かれてもいたようです。その中国山脈の高原地域が、彼らの司令部、あるいは都とも言うべき拠点となります。 現在の真庭市には、宮座山があり、そこには盤座(いわくら)が残され、また、周辺には、数百戸規模の集落遺跡が見つかっており、重要な拠点だったことが分かります。 合併して今は真庭市ですが、その前までは真庭郡でした。真庭郡は、明治に真嶋郡と大庭郡が合併しています。つまり、それまでは、大庭と呼ばれていました。「おおにわ」または「おおば」、それは、王のいる朝廷、王のいる場所を意味してもいます。 そして、紀元前1世紀頃から少しずつ勢力を大きくし、2世紀頃にはかなりの大きな力を持つようになります。 蒜山の南域には今もたたら製鉄の遺跡が数多く残されています。その鉄から刀などの武器に加工していたのが、備前長船です。その地域は、武器製造拠点といった巨大軍事産業エリアだったと考えられます。 備前一宮は、「石上布都神社」で、明治時代までは、すさのお尊が八岐大蛇を切った剣「布都御魂」が祭神とされていました。 この神社から奈良天理市の地に勧請されたのが、「石上神宮」だとされています。 つまり、この蒜山を中心として吉備一帯は、彼らにとっての極めて重要な拠点でした。 さて、東胡の勢力が、この列島にやって来ることになったのは、匈奴に征服され、その攻撃と支配からの逃避が大きな要因でもありました。 そして、匈奴が渡来してきたのは、その匈奴に復讐をする烏丸や鮮卑、あるいは大飢饉や後漢の攻撃からの逃避が要因となっています。 すなわち、この列島に逃避してきた東胡と匈奴、どちらにもお互いに大きな怨念を持っての渡来です。その両者が、この列島で相対することとなりました。 さらに、この列島での東胡は、この列島の人々を奴隷のごとくに隷属下に置いていました。 しかし、製鉄による強力な支配力を持つ東胡に対して、その支配を打ち砕くことは容易ではありません。十分に戦力を蓄え、その戦いに備えなければなりません。 大陸では、2世紀半ば鮮卑が、北アジアをその支配下にし、匈奴はその地から一掃されます。 南匈奴は、後漢に取り入りますが、北匈奴は、自らの地を追われて、最終的にこの列島にまで渡来します。 この列島では、多くの人々が東胡の圧制に苦しんでいましたが、それは匈奴の勢力とて同様の状況下に置かれます。 そして、2世紀半ば、この列島に匈奴の勢力が、集結することになりました。 いよいよ、時は至れり、満を持しての戦いの火蓋は切って落とされます。 |
邪馬台国発見
ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」
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