古事記1300年にあたって

1、歴史的背景

 今年は、古事記が編纂されて1300年という節目の年だということで、各地でその記念行事も執り行われているようです。
 しかし、その古事記に描かれている世界が果たして史実なのか、あるいは史実がどう反映しているのかといったところにおいては、諸説あるようです。私は、2008年に出版した「新説『日本古代史研究』」においても古事記について触れていますが、改めて、そこに描かれている神話の世界の実像に迫ってみたいと思います。
 まずは、編纂された当時の時代背景について検証してみましょう。
 古事記の序によれば712年に太安万侶(おおのやすまろ)によって献上されたことになっています。また、720年には日本書紀が編纂されています。それに遡る701年には大宝律令が制定されており、当時は、新たな国家形成の時期でもあります。703年には、その報告といった遣唐使が派遣されてもいます。
 つまり、この時期は、わが国が大きな転換期を迎えていたことを意味しています。律令制とは、唐の制度です。では、どのようにして、大陸の国家体制がわが国に持ち込まれたのでしょうか。通説にあっては、遣唐使によってもたらされたことになっています。では、いつの遣唐使がそれに相当するというのでしょう。
 唐代になり、631年にわが国から使者が送られていますが、第2代皇帝李世民は、その翌年、遠方ゆえ朝貢は不要との使者を送ってきます。しかし、礼を争って、唐の使者は朝命を伝えることなく帰国しています。さらに、第3代李治の時代には、648年にわが国を「倭国」などと呼ぶなと、国名を「日本(ひのもと)」と改めたことを伝えています。しかし、唐王朝は、その使者の言うことに不審を抱いています。
 その後、660年以降、朝鮮半島は、唐・新羅対百済の激しい戦いになります。百済はわが国に支援を求めてきて、663年には、白村江の戦いでわが国の軍勢は、唐により殲滅されます。
 つまり、わが国と唐とは敵対関係にあり、決して国家制度を取り入れるような親密な関係にあったわけではありません。
 そんなわが国で、701年に唐の制度である大宝律令が制定され、703年に唐に派遣された使者は、今までと打って変わって唐王朝に大歓迎されています。その使者の追従姿勢や、それに対する唐王朝の歓迎振りからは、あるひとつの結論へと導かれます。それは、わが国が、白村江の戦いの直後に、唐王朝の支配下に置かれたということです。その詳細は、資治通鑑にも残されています。
 中国には、正史24史が残されていますが、それは滅んだ王朝の歴史を新たな王朝が書き残したことによるものです。つまり、古事記や日本書紀が残されたことは、当時、わが国において王朝が滅ぼされたことを意味しています。その滅ぼされた王朝こそが出雲王朝です。
 つまり、古事記や日本書紀は、出雲王朝について書き残すことにその主眼がありました。では、次は、その古事記について検証してみましょう。

                 


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