古事記1300年にあたって

6、出雲王朝の祟り

  わが国を征服した唐王朝ですが、出雲王朝の人々を殺戮した後ろめたさからか、その祟りに恐れ慄いていたことも描かれています。
 垂仁天皇の段で、その御子は、大人になるまで話すことができませんでした。その天皇の夢に神が出てきて、『私の宮を天皇の宮殿と同じように整えたら、御子は必ずきちんと話せるようになるだろう』と言うのです。そこで天皇は、『その夢は、出雲大神の御心によるものだ』と、御子を出雲に参拝させました。すると、その御子は言葉が話せるようになり、天皇は、出雲の宮殿を新しく造らせたとあります。
 このように、わが国を支配下にした唐王朝・藤原氏ですが、出雲の『祟り』に怯えていたということ自体、加害者としての認識を持っていたことの証明でもあります。
 同時に、その報復を危惧してもいて、その対策を講じる事も決して疎かにしてはいません。出雲の勢力による報復や出雲王朝再興などといった反攻の対策として、『征夷大将軍』を設置して、常にその監視と制圧を行っていました。征夷の夷は、夷人であるところの出雲王朝の勢力をも意味しています。出雲王朝の人々は、唐王朝による侵略を逃れて津軽へと逃避しました。それが出雲弁と津軽弁にイントネーションが共通している要因でもあります。
 西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、出雲の地にあった当時の都は、唐王朝によって滅ぼされ、その大国の王である大国主命を始め多くの人々が抹殺されました。

 その弔いが、今も出雲の地で執り行われています。それが、全国の神々が集まる神在祭です。旧暦の10月10日の夜7時、稲佐の浜でかがり火が焚かれ、神迎えの神事が始まります。そして、翌日から1週間、神在祭が出雲の地で行われます。
 その神々が集まって、神事が行われる場所は、出雲大社の本殿ではなく、稲佐の浜にある仮宮という神社です。その場所は、当時の海岸に位置しています。つまり、「国譲り」のあった場所です。そこで、今で言う総理大臣に相当する大国主命を始めとする出雲王朝の人々が抹殺されたことを意味しています。
 また、唐によって出雲王朝が滅ぼされるその瞬間を歌にして残した人がありました。
 その人こそが、柿本人麻呂です。

 『東の 野にかぎろひの たつ見えて 返り見すれば 月かたぶきぬ(1-48)』
 今の解釈では、「かぎろひ」と読ませていますが、原文では「炎」となっています。つまり、人麻呂は、この列島の大王が君臨していた高層の神殿から、出雲王朝が焼き討ちされ無残に滅ぼされる姿を歌に残したのです。その時、人麻呂の見た月が、日暮れとともに南中し夜半に西に傾く上弦の頃の月、つまり旧暦10月10日の神迎え祭の時の月です。
 わが国を征服した唐王朝は、出雲王朝の痕跡をことごとく消し去りました。しかし、出雲王朝のラストエンペラーであった人麻呂は、歴代伝えられている歌や自らの歌を、万葉集として残しました。そこには、出雲王朝の姿が鮮明に描かれていました。

 


                       


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