古事記に残された大陸回帰の指令

3、出雲の祟り

 唐王朝・藤原氏は、出雲を征服したものの、その祟りに怯えていたということもうかがえます。
 出雲王朝が、唐に対して何をしたわけでもありません。服従しないからとか、あるいは水銀欲しさといった身勝手な理由でこの列島を侵略し、占領したのですから、決して心安らかではなかったのでしょう。その上、出雲から『献上』されたといった都合の良い偽りの『歴史』をでっちあげているのですから、相当恨まれるだろうということぐらい分かります。
 その自責の念にかられ、あるいは出雲の祟りに怯えて、その不安から枕を高くして眠れぬ夜もあったことでしょう。崇神天皇の段には、その時代に疫病が大流行して、人民が死に絶えようとしていたとあります。そして、その時、天皇の夢の中に大物主神が現れて、『これは、私の意思によるものだ。だから、意富多々泥古(おおたたねこ)をして私を奉らせるならば、神の祟りによる病も起こらず、国もまた安らかであろう』と言っています。そこで、その意富多々泥古を探し出して、大物主神を奉る三輪山で意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を拝み、さらに天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)を祭る神社を定め奉ると、疫病はすっかりやんで、国家は平安になったとあります。
 つまり、出雲を征服した彼らは、その『祟り』に相当怯えていたということがうかがい知れます。
 ですから、後の藤原氏にも出雲を奉る事を忘れてはならないと伝えているようでもあります。
 『祟り』の話は、まだあります。
 垂仁天皇の御子は、大人になるまで物が言えませんでした。その天皇の夢に神が出てきて、『私の宮を天皇の宮殿と同じように整えたら、御子は必ずきちんと話せるようになるだろう』と言うのです。そこで天皇は、『その夢は、出雲大神の御心によるものだ』と、御子を出雲に参拝させました。すると、その御子は言葉が話せるようになり、天皇は、出雲の宮殿を新しく造らせたとあります。
 そういった理由からかどうかは分かりませんが、彼等の『天皇』の住まいであった『京都御苑』の敷地内にはいくつかの神社があります。その御所の南の真正面には『厳島神社』が、そして、その傍には『宗像神社』があります。
 このように、藤原氏が出雲の『祟り』に大層怯えていたということ自体、加害者としての認識を持っていたことの証明でもあります。同時に、加害者意識があることから、その報復を危惧してもいました。
 つまり、その対策を講じる事も決して疎かにしてはいません。出雲の勢力による報復や出雲王朝再興などといった反攻の対策として、『征夷大将軍』を設置して、常にその監視と制圧を行っていました。
 征夷の夷は、夷人であるところの出雲の勢力をも意味しています。
 平安朝の頃に設置された征夷大将軍は、その後も徳川時代に至るまで残されました。
 そういった出雲対策は、遠い過去のことではなく、今も引き続き行われています。
 歴史認識という点においても、出雲大社をはじめ神社や遺跡などの分析も含めて、記紀認識内に押し留めるような対策は怠ることなく徹底されているようです。        

                       


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