石見の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと [一云 礒なしと] 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は [一云 礒は] なくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 柔田津(にきたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を [一云 はしきよし 妹が手本を] 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む 靡(なび)けこの山 (2-131) 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか(2-132) 笹の葉は み山もさやに さやげども 我れは妹思ふ 別れ来ぬれば (2-133) 663年秋、『白村江の戦い』の直後、この列島を制覇していた出雲王朝は唐王朝に滅ぼされ、701年大宝元年に、この列島は唐の制度で塗り替えられ、その支配下に置かれてしまいました。 その時に導入された律令制度に基づき、人麻呂は、初代石見国司として赴任したと言われています。 その地で、人麻呂は、依羅娘子(よさみのおとめ)とめぐり合います。そして、一緒に暮らすようになるのですが、人麻呂は、4年ほどして再び都へ戻ることになります。 その時の別れの歌が、残されていました。 石見の海は、浦や潟がないと言われるが、柔田津の港から鯨漁にも出かけ、その荒磯には波が寄せ玉藻をなす。その玉藻が寄るように寄り添って寝ていた妻を置いて、その地を離れることになった。その帰る道すがら、曲がり道のたび1万回ほども振り返っている。そのたびに、彼女のいた里は、遠くに離れて、山も越えて来た。夏草が萎えるように私のことを思っているであろう彼女の門が見えるように、靡いてくれこの山よ。 反歌が2首あって、高角山の辺りまで来て、その山間から人麻呂は手を振り、妻はこの袖が見えるであろうかと妻のことを思いながらその別れを惜しんでいます。 しかし、どうして一緒に帰ることができなかったのでしょう。 この歌からは、その事情は分かりません。 もう1首同じような歌が詠われていますので、そちらを見てみましょう。 |
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邪馬台国発見
ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」
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