万葉集に秘められた真実!
柿本人麻呂、『古』を偲ぶ  3

近江大津宮が引越し?

 近江大津宮跡地は、琵琶湖の西側にあります。今は、市街地になってしまっていて、発掘調査も大変だったようです。その跡地に行きまして、まず思ったのは、どうしてその地に都を構えたのだろうということでした。湖東方面は広々と開けているのに、何故すぐに山が迫っている西側の狭い場所にわざわざ配置しなければいけなかったのでしょう。都ともなりますと、いわゆる大極殿だけでなく、数多くの建物が付随して建てられます。ちょっと、そういったことを考えますと、どうしても狭すぎやしないかと思ってしまいます。
 そして、その現場へ行きますと、市街地の中に位置していて、すでに埋め戻されて整地され、公園といった状態でした。そこには、それらの調査をした時の写真などを表示した案内板が設置されていました。概略はおおよそ分かりますが、詳しくは、大津市史を見たほうが良さそうです。
 そして、いよいよ琵琶湖へと向かいました。その近くには琵琶湖八景と言われる見晴らしが良くて、公園になっている所がありました。琵琶湖の眺めはなかなか良くて、いくつか映像も公開していますのでご覧ください。(映像)
 琵琶湖の眺めもよろしいのですが、はたして千鳥はいるのか、あるいはいたような環境があったのかということも気になるところです。映像にもありますように、潟や干潟といった場所は見かけることはありませんでした。また、近くの方にお聞きしましたが、千鳥は見かけないとのことでした。鴨は、たくさんいたのですが、その鴨は京都から飛来しているそうです。鴨川というだけあって、そこからこの琵琶湖にやってきていました。夕方には、帰っていくとのことでした。遠いようでも、一山超えれば来れます。空には、信号も渋滞もありませんから、それこそひとっ飛びというところでしょう。鴨川から琵琶湖まで直線でおよそ10kmとしても、仮に時速40kmで飛んだとすれば15分ほどで着きます。
 さて、鴨ではなく千鳥ですが、現在も見かけることはないようですが、古代にあってもはたして千鳥の生息するような環境だったかどうかは疑問のあるところです。
 琵琶湖も見まして、その夜、大津市史に近江大津宮の調査がどのように書かれているのか読みますと、大変重要なことが分かりました。
 当時、大きな建築物の柱や建材は、再利用することが結構あったと書かれていました。その地での利用が終了したとかで、移動したり、どこかで別の使われ方がされるなどといった時には、その建物を分解し、次の地で建て直すといったことが行われていたということです。
 そして、その近江大津宮と見られる建物の跡地で発掘された柱の跡を調査したところ、間違いなく柱を移動させた形跡が残っていたというのです。ということは、近江大津宮の建物は、何処かへ移設されていたということになります。
 これは、極めて重要な調査結果です。なぜならば、日本書紀によりますと、近江大津宮は、炎上したことになっているのです。しかし、その調査では、焼けたような痕跡は何処にもなく、柱はすべて綺麗に抜き取られ、何処かへ移設されたであろうという結果となっています。
 そうなりますと、いったい壬申の乱で近江大津宮が焼き滅ぼされたという記述は何なのかということになります。そこにあった建築物は、近江大津宮の建物ではなかったのか、あるいは、近江大津宮はあったが壬申の乱で炎上していなかっただけなのか。また、近江大津宮も壬申の乱なるものもなかったのか。
 実際の近江大津宮があったとされる遺跡からは、日本書紀の記述を裏付けるものは無かったということが明らかになったのです。人麻呂と近江大津宮との関連は全く分からない上に、近江大津宮すら本当にその地にあったのかどうかすら分からないといったことになってしまいました。
 そうなりますと、人麻呂が琵琶湖のほとりで佇んで滅んだ近江大津宮を偲んでいたというのも、全く根拠がないことになります。人麻呂が琵琶湖で通説のような思いで、そこに佇んでいたという解釈は成り立ちません。全くの想像ということでしかありません。
 ということは、ますます『淡海乃海』が、琵琶湖を意味しているのかどうかも疑問となってきます。
 では、『淡海』が近江、つまり琵琶湖を意味する根拠とされている万葉集の歌をもう少し調べてみることにしましょう。
         

                       


邪馬台国発見

ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

国産ローヤルゼリー≪山陰ローヤルゼリーセンター≫

Copyright (C) 2008 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.