万葉集に秘められた真実!
柿本人麻呂、『古』を偲ぶ  5

人麻呂の古(いにしへ)とは?

 第2首の通説の解釈に対する疑問もそうでしたが、そういった解釈は成立しないということが分かっても、ではそれらの歌が何処で何を詠ったものかは、容易には理解できませんでした。前述しましたが、それらの疑問の根幹を成す古代における都を、一素人が見出すことは到底できるものではないとあきらめかけてもいましたが、中国の史書を調べる中で、出雲が都だったというところに行き着くことができました。それによって、今までよく分からなかったことが、次々と解明できていき、同時にこの歌も、それらの認識の到達によって次第に紐解かれていきました。
 この列島における古代の都は出雲でしたが、その都は663年の白村江の戦いの直後に唐王朝の手によって滅ぼされてしまいました。
 人麻呂は、その出雲王朝と大きな関わりがありました。『万葉集に詠われた吉野を探る 4』でご紹介した第1巻第36首の歌は、人麻呂の作品です。つまり、出雲王朝が健在だった頃に、人麻呂はその都の地に居たことになります。
 そして、その興亡を人麻呂は自らの目で見てきていたのです。
 出雲の地にあった美しい吉野に高く聳え立っていた超高層の神殿、そこに高く光り輝く国家的象徴であった『天』、『天照』、などの大きく栄えていた頃の出雲王朝を称える歌を人麻呂が残しています。
 その一方で、出雲王朝が滅ぼされていく無残な姿をも見ていました。
 それを人麻呂は目にしていたと思われる歌が残されています。
 人麻呂の、まだ幼き頃の、鮮烈に残る記憶ではなかったかと思われます。

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ(1-48)

東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
 
 近年は、原文の『炎』を『かぎろひ』と読ませていますが、以前は『けぶり』だったようです。
 その『かぎろひ』とはいったいどういった現象なのだろうといった研究もされているようですが、原文では、普通に『炎』ですから、何か『かぎろひ』といった特別の状態を詠ってなどいません。江戸時代に賀茂真淵が『かぎろひ』と解釈したようですが、その『かぎろひ』という現象を研究しても、そこからは何も解明されません。まったく無意味なことだと言わざるを得ません。これも、一連の『見なし解釈』でしょう。『炎』を、殊更何か違った現象のように描いているようですが、どうして『かぎろひ』でなければいけないのでしょう。
 さて、この歌を人麻呂がどういった思いで詠ったのかですが、東の方向に『炎』が立っている所が見え、そして一方、月は西へ傾いていったと詠っています。ということは、まず昼間ではないことは明らかです。そして、『月西渡』ということは、そこにはある一定の時間が経過していることも分かります。南に見えていた月が、今は西に傾いているということは、その月は、上弦の月に近かったと考えられます。
 また、そこには、決して楽しい思いが込められているようには感じられません。月が沈むように、何かが沈んでいくことをそこにダブらせているようです。
 そして、東の方向には、あちこちから火の手が上がっていたのでしょう。人麻呂は、緊張しながら、あるいは震撼としながらその『炎』を見ていたのでしょうか。迫り来る恐怖感を詠っているようにもとれます。それも、夜更けから深夜にかけて炎があちこちで立ち昇るといったことですから、それはただならぬ事態を意味しています。
 出雲王朝と大きな関わりのあった人麻呂がそこまでの大事件に遭遇しているとすれば、その出来事は、出雲王朝が唐王朝によって攻撃された時の事ことだと考えられます。
 それは、白村江の戦いの直後、つまり663年秋、おそらく9月頃からこの列島は攻撃され出雲には10月頃やってきたと考えられます。それも、旧暦の10月10日だったのかもしれません。その前日は、半月、上弦の月で、その翌日となります。日没の頃に南に月が出ていますが、夜半になりますと月は西へ傾きます。その日、出雲は、唐王朝の軍勢の攻撃にさらされていたのでしょう。その戦乱の中に、人麻呂もいたと思われます。しかし、戦死は当然ながらしていません。さらに、戦闘している状況でもないようです。つまり、人麻呂は、戦士でもなければそういった年齢にも達していなかったと考えられます。
 おそらく、人麻呂は、出雲王朝の言ってみれば『皇太子』的存在で、その時、出雲大社の地にあった超高層の神殿の上にいたのでしょう。その下では、多くの兵士たちが守っていたと思われます。
 つまり、この歌が詠われたのは、その神殿の上だと考えられます。
 その神殿から、人麻呂は、西は海ですから、東の方向に広がるいわゆる国原で、建物に火がつけられあちこちで大きな炎が燃え上がるのを見ていたのでしょう。この列島の都、『やまと』の炎上です。
 また、その方向には、出雲国庁跡があります。そこは、当時の都の中枢でもありました。今で言えば、永田町でしょうか。そこの地名が『大庭』というのもその名残かもしれません。この時に、その出雲国庁跡にあった建物も焼き討ちされたと考えられます。その場所から発掘された柱には、焼けた痕跡が残されています。つまり、隋書でも記されていましたが、『天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』と出雲王朝の使者がその国家形態を述べています。『天』は国家的象徴で、『日』は、実質的支配者です。今で言えば、天皇と総理大臣といったような関係でしょうか。
 その『天』がいたのが出雲大社の地で、『日』である実質的支配者の大国主命がいたのが出雲国
庁跡地にあった大宮処です。
 この戦乱で、実質的支配者であった『日』の勢力が、殲滅されてしまいました。
 しかし、『天』は、後の支配のために残されています。ですから、人麻呂は殺害されることなく『生かされた』のです。
 その時に殺戮されたのが、実質的支配者『日』である『大国主命』で、10月10日が、その命日として、今にまで伝えられています。しかし、今の出雲にそういった認識は残されていませんが、『神在祭』の前日、旧暦の10月10日の夜に稲佐浜で行われる『神迎えの神事』は、それを伝えていると考えられます。その殺戮現場は、当時の海岸に位置する『奉納山』のふもとにある『仮宮』の地でしょう。
 このことは、記紀にも残されています。武甕槌神(たけみかづちのかみ)が、今の稲佐浜で大国主命に『国譲り』を迫り、大国主命は、自らの支配する国を『献上』したとされています。つまり、侵略者に都合よく献上されたと描かれていますが、実際は、殺戮の限りがつくされています。それは、中国に残されている資治通鑑などの史書にも描かれています。
 当時の実質的支配者であった大国主命は、『天』の守護の為に出雲大社の地にいたのでしょう。しかし、唐王朝の手の者によって殺害されてしまいました。
 この戦いの折りに、彼らの象徴であった銅剣などが秘かに埋められたのが、荒神谷遺跡だと考えられます。そこから発掘された銅剣などの数は、当時の出雲の神社の数にほぼ匹敵します。
 そして、その大国主命を偲んで毎年、全国の神社にいた『神』が、出雲にやって来ることになったの
でしょう。それゆえ、全国では『神無月』、出雲では『神有月』と言われています。そして、その神々が集合するのは、『奉納山』のふもとの『仮宮』です。大国主命やその家臣たちの殺戮された場所で、冥福を祈るという行為なのでしょう。
 しかし、そういった認識は現在の出雲にはありません。そういった認識すら残すことが許されなかったのでしょう。
 これらのことから、この第48首は、西暦663年10月10日(旧暦)に詠まれた、この列島の都『やまと』が陥落した時の歌だと考えられます。(新暦では、663年11月18日に相当します)
 『月西渡』には、この列島が西国『唐』の手によって征服されたことを意味しているように思えます。
 そして、人麻呂が後年『古(いにしへ)思ほゆ』と偲んだその対象は、この滅ぼされた出雲王朝のことだという認識に至りました。
          

                       


邪馬台国発見

ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

国産ローヤルゼリー≪山陰ローヤルゼリーセンター≫

Copyright (C) 2008 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.