万葉集に秘められた真実!
万葉集に詠われた吉野を探る  4

持統天皇『吉野行幸』に31回

吉野川、そして滝は何処に?

やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激る 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも

 これは、第1巻第36首の歌ですが、ここにはその『吉野』の風景や、そこがどういった地だったのかが、まとめて詠われています。つまり、『吉野』とはいったい何だったのかが描かれていました。
 『やすみしし 我が大君』とありますから、国家的象徴であるところの大王、すなわち『天』を意味することになります。そして、山や川があり清い河内にある吉野の国は、『秋津の野辺』、つまりトンボのような形をした島、今で言う島根半島にあったということになります。そして、大王は、そこにとても太い宮柱を建てたとありますから、それはその大王の君臨する超高層の神殿を意味しています。そして、その近くには川があって、大宮人たちは、朝夕船に乗って競ったりしながら渡っていました。このような川のごとく絶えることなく、山のように高く聳え立つ滝のある宮処は、いつまで見ていても飽きることがないと、吉野の地を詠っています。
 すなわち、その吉野は、秋津島であるところの島根半島にあり、山のように高い神殿があったということは、間違いなく現在の出雲大社の地に吉野の国があったことになります。
 『吉野』とは、国家的象徴であるところの大王が君臨する超高層の神殿が建っていた、現在の出雲大社のあたりを指していたのです。
 ですから、その神殿にいた持統天皇が、そこを降り立ちて吉野周辺で休養したとしても、何ら不思議はありません。
 やはり、持統天皇は、出雲にいたのです。そして、吉野も出雲にあったということになります。
 宍道湖七珍と言われている料理の中に高級魚『すずき』の奉書焼きがあります。その『すずき』が、持統天皇に献上されたという記録が残っています。ところが、宍道湖で獲れた『すずき』を奈良にいた持統天皇に届けたとされています。
 今であれば翌日にでも届きますが、当時にあっては1ヶ月はかかりそうです。その間に、『すずき』は腐食してしまいます。そこで、通説の解釈では、『すずき』を干物にして届けたということのようです。『すずき』を干物にして奈良にまで送って、どれだけのおいしい料理となるのでしょう。
 決して、持統天皇に献上して喜ばれるほどのものになるとは思えません。『すずき』は、刺身にしましても『鯛』以上に美味しいとも言えます。今にも奉書焼き、つまりホイル焼きといった美味しい料理があるように、その新鮮な『すずき』が宍道湖から出雲大社の地にいた持統天皇に献上されたと考えた方が極めて自然に思えます。
 あるいは、奉書焼きという『すずき』の料理は、それが今に伝えられたものなのかもしれません。
 そして、万葉集に詠われている『み吉野』とは、出雲大社周辺を詠ったものでした。
 それほどまでに、美しい景観の地だったのでしょう。
 さて、そうなりますと、吉野川や滝は出雲大社周辺にあったことになるのですが、現在にもそういった痕跡は残されているのでしょうか。         

                       


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