万葉集に秘められた真実!
柿本人麻呂、遂に墜つ  4

大伴家持=柿本人麻呂=聖武天皇

 今のわが国においては、戸籍も整備されて名前も生涯1つだというのが当たり前ですが、古くはいくつかの名前を称することもよくあったようです。
 かの伊藤博文は、10以上も名前を変えていました。
 万葉集の中においても、柿本人麻呂が、そのまま名乗っている歌もあれば、いわゆるペンネームを使用していたといったことも考えられます。それも、万葉集の中だけの名前もあれば、実際名乗っていた名前もあるかもしれません。
 当時は、唐王朝の支配下にあり、出雲王朝の歴史を残すということは、かなりの危険が伴う行為だったとも言えます。そのために、そういったカモフラージュが施されたのかもしれません。
 柿本人麻呂の、苦肉の策だったのでしょうか。
 大伴家持は人麻呂自身であったというところに行き着きましたが、そういった視点で検証していますと、さらに、人麻呂は聖武天皇でもあったということも見えてきました。
 では、その歌をご紹介しましょう。
 
葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの 聞けば貴み(18−4094)

すめろき
(天皇)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 
陸奥山
(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲く(18−4097)

 
 聖武天皇は、天平16年(743年)に東大寺大仏建立の詔を出し、その建設にあたります。
 その大仏の表面には、金メッキが施されるのが、当時の『正装』です。しかし、金は、大陸からわずかに輸入されているだけで、この列島からはまだ金が採掘されていませんでした。
 もし、その大仏の表面を飾る金が無ければ、銅がむき出しのまま開眼の式典を迎えてしまうことになってしまいます。
 海外からの貴賓も来日するというのに、それでは余りの醜態をさらしてしまいます。聖武天皇は、大仏の完成が近づくというのに金が無くて、全国に金を探し求めます。
 そんな中、749年に東北から金が発掘されたという知らせが届きました。聖武天皇は、ただちに年号を『天平感宝』と改めて、さらに天皇の地位を譲位して大仏開眼へと邁進しています。
 聖武天皇の感激ぶりは、いかほどだったでしょう。
 この歌は、その出金の詔が出された折に大伴家持が詠ったとされています。
 しかし、その時、大伴家持は、越中の国守だったとあるのです。
 この歌が一地方役人の歌などとは、到底考えられません。
 その大仏建立の当事者である聖武天皇自身の、『狂喜乱舞』するがごとくの喜びを歌にしたためたものでしょう。
 先に検証したように、大伴家持は、柿本人麻呂自身でした。同時に、その大伴家持は、聖武天皇でもあったということにもなります。
 すなわち柿本人麻呂は、聖武天皇でもありました。
 この帰結により、それまでの不明な点の辻褄が合ってきました。
           

                       


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