東大寺正倉院には聖武天皇の遺品が残されていて、正倉院は、その聖武天皇の遺品を保存するところから始まったと言われています。東大寺献物帳「国家珍宝帳」によると、聖武天皇の遺品は、600点ほどあったようですが、その半数近くは消失しています。 ここには、また数多くの謎があります。 なぜ、聖武天皇がそのような宝物を持っていたのでしょう。それが、どうして東大寺に寄贈されてしまったのでしょう。つまり、『天皇家』の遺産としてどうして引き継がれていかなかったのでしょう。 先に、奈良へ調査に行った折に、正倉院展にも行ったことや、その時に、学芸員の方からいくつかお話を聞いたことにも触れました。その一つが、この聖武天皇の遺品についてでした。 他にも天皇はいたのにどうして聖武天皇だけがあんなにも宝物を持っていたのかといったことを訊ねました。 『それは、天皇家の血筋ですから、代々受け継いで来られたのでしょう』 そういったお返事でした。 では、そのままどうして引き継がれていかなかったのでしょう。 こういった疑問も出雲に都があったという認識に至ったことで紐解かれていきました。 つまり、出雲王朝に伝わる宝物を引き継いでいたのが聖武天皇であったというところに行き着いたのです。 唐王朝は、この列島の実質的支配者であった大国の王『大国主命』を抹殺しましたが、国家的象徴である『天』は後の支配のために残しました。そして、その最後の『天』であったのが聖武天皇だったのです。聖武天皇の諡号は、『天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)』となっています。 文字通り『天』の璽(しるし)、出雲王朝の国家的象徴だったことを意味しています。 また、聖武天皇の遺品の中には『王羲之書法廿巻』とあり、4世紀頃の書聖の書を聖武天皇が持っていたことが記されています。唐代において、第2代皇帝太宗(李世民)は、王羲之(おうぎし)の書をこよなく愛していたとあります。そして、その王羲之の書を数多く収集していたのですが、没後、陵墓に一緒に埋葬されてしまったとも言われています。それゆえにか、王羲之の書は、中国おいても現存していません。 もし、正倉院にその書が保存されていたら世界史的遺産となっていたことでしょう。 では、何故聖武天皇は、そのような王羲之の書を持っていたのでしょう。 それは、聖武天皇が出雲王朝の国家的象徴である『天』であったことから紐解くことができました。中国の史書には、この列島征服の足跡が残されていますが、その旧唐書には、この列島を征服した唐王朝軍の司令官である劉仁軌が、『新羅及び百済、耽羅、倭の四国の酋長』を連行して凱旋した時、唐王朝第3代皇帝高宗(李治)は『甚だ悦んだ』と記しています。そして、囚われた倭王は、671年に帰国したとも日本書紀には記しています。 つまり、ここからは、663年白村江の戦いの後、この列島が征服され、国家的象徴である『天』が唐に連行されていることが分かります。そして、8年ほどして帰国しています。 この時に、まだ幼少だった聖武天皇も一緒に連行されていたと考えられます。 その唐にあって、書道や仏法、漢詩文など唐王朝による『教育』が施されたのでしょう。ですから、聖武天皇の宸筆とされる漢文調の『雑集』はかなりの達筆ですし、奈良国立博物館の正面玄関上にある『奈良国立博物館』という表示文字は、その『雑集』から字体が起こされています。 聖武天皇が、東大寺大仏を建立するに至るその思想的根源は、そこに遡ると考えられます。 また、聖武天皇の遺品には、豪華な囲碁盤も残されていますが、聖武天皇の囲碁の腕前は相当なものだったそうで、囲碁好きだった玄宗皇帝の若き頃の指南役だったとも言われています。そういった王羲之の書や囲碁盤は、その帰国時に授かった物と考えられます。 聖武天皇が、書道や仏教に精通していたことは、万葉集にも伺われます。その万葉集の原本は、相当な書の腕前で記されていたようで、掛け軸にもされていたとも言われています。 こういったことも含め、聖武天皇が柿本人麻呂であったということが見えてきました。 すなわち、聖武天皇は、出雲王朝に伝わる数多くの宝物や歴代の『天』の詠んだ歌を引き継ぐ立場にあったことになるのです。 それぞれが、繋がってきました。そして、聖武天皇は756年に亡くなったことになっています。 出雲王朝の末裔である聖武天皇は、都から放逐され、その歴史的遺産である数々の宝物は、『皇后』により東大寺に『献上』されたことになったのでしょう。 すなわち、人麻呂は、天皇あるいは太上天皇といった政治的役割を756年に終え、出雲王朝の歴史的遺産も簒奪され、故郷である出雲の地に『隠居』するに至ったのでしょう。 つまり、後の支配のために『生かされて』いた『天』も、その役割を終えた、つまり、唐王朝による列島征服に伴う『歴史の断絶』を取り繕うための『引継ぎ』が完了したと唐王朝『藤原氏』が判断したのでしょう。 この時点で、出雲王朝の実質的影響力は途絶えます。 これ以降、わが国の歴史からは『出雲王朝』なるものが存在していたことすら消されていくのです。そして、その『大和』、『吉野』、『近江』といった地名は、出雲ではなく、近畿地方を示すことになりました。 それ以降、この列島の都であった『やまと』の地は、『出雲』と呼ばれることになりました。 その旧都の新たな『都市計画』といった文章が、『出雲風土記』だと考えられます。 『出雲』の地には、『やまと』なる都など無かったという『証拠』のために、『出雲風土記』は、後々にまで残され続けてきました。 そうった状況に至り、聖武天皇であるところの柿本人麻呂は、この列島の都『やまと』の歴史は自分が残さなければいけないという決意に至ったと思われます。 ここに、万葉集誕生の秘密あるいはその動機があったと考えられます。 万葉集最終歌は、759年に詠われています。 人麻呂は、出雲、つまりこの列島の都であった『やまと』の地に756年に帰り来て、759年までの間に万葉集を作りつつ、最後の最期まで歌を詠みながらその生涯を閉じたという結論に至りました。 そして、万葉集には、この列島の都「やまと」、すなわち、「邪馬台国」の姿が詠い残されていたのです。 |
---|
邪馬台国発見
ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」
国産ローヤルゼリー≪山陰ローヤルゼリーセンター≫
Copyright (C) 2008 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.