大陸から渡来した4大民族

2) 渡来の要因とルート

ルート
 この列島に渡来するルートとしては、いくつか考えられます。

 <黒潮ルート>
 まずは、南方から、黒潮に乗ってやってくるルートです。
 このルートは、フィリピンなど南方諸島をはじめ、インド、あるいは中東をも含む多様な民族の渡来が考えられるところです。

 <朝鮮半島西ルート>
 このルートは、朝鮮半島の西側を南下し、対馬や壱岐を経てこの列島にやってくるルートで、最も渡来が多かったとも言えます。民族の渡来だけでなく、魏志倭人伝にも出てくるように、交易という点でも頻繁に行き来していたと考えられます。

 <朝鮮半島東ルート>
 このルートは、朝鮮半島の東南岸沿いにある迎日湾から出航するルートで、西ルートが表ルートであれば裏ルートといったところでしょうか。満州など東アジアから朝鮮半島の東側を南下しての渡航ですから、あるいは、大陸の東に追いやられ、さらに南に下って渡航するという、逃避行としての隠されたルートだったのかもしれません。
 迎日湾を出航しますと、まず北からのリマン海流で南下します。そして、次に日本海流で北東に流されますと隠岐島に着きます。その隠岐島から南下したら、島根半島に着きます。
 もう1つは、隠岐島から南東にやってきますと、鳥取県中部の東郷湖周辺に着きます。
 その東郷湖は、古くから温泉が湧き出ていて、渡来人の上陸地点としての重要な港でもありました。
 これらのルートは、そういった海の潮の流れがあり、それに沿って渡来していました。現在もその流れに変わりはなく、朝鮮半島から様々な「ごみ」が、山陰海岸沿いに流れ着くのもその流れによるものです。また、最近でも、隠岐島から、特に動力も無く帆を張って東郷湖付近にやって来られる人もあります。フェリーとかで境港経由だと、交通費や手間もかかりますが、自分の船でとなると直行で手軽に行き来できるというわけです。
 そして、今にも、その渡来の大きな拠点だったという痕跡が残されています。東郷湖から流れ出る橋津川の河口には、海の中の岩場に湊神社の鳥居が残されています。その湊神社の秋祭りでは、神輿が海の中にまで入ったり祭船も出ます。(現在は祭船は中止されています)
 また、その近くには、「馬ノ山」という山があり、古来その丘陵では馬が飼育されていました。
 つまり、上陸した渡来人が、中国山脈を越えて山陽や四国、近畿方面へ向かうとなると相当な長旅となります。ましてや、多くの荷物を持っていたりしますと、かなり大変です。すなわち、馬が、その旅に必要な移動手段だったのではないかと考えられるのです。今で言う「駅前レンタカー」というわけです。
 さらに、その近くからは、「長瀬高浜遺跡」が発見され、出ないものはないというほど多種多様な遺物が発掘されました。その中から、歴史上極めて貴重なものも出てきています。それは、銅鐸の初期のものです。小さなコップ程度の大きさで、後の時代になればなるほど大型化していきます。その初期段階の銅鐸が、この上陸地点である東郷湖近くの遺跡から発見されているのです。
 つまり、このエリアが文化の合流する地であって、そこから銅鐸が造られるようになり、その銅鐸文化が近畿方面へと広がっていったと考えられます。銅鐸の分布と、東郷湖を上陸地点として、その渡来人が広がっていくエリアは、合致しています。

 <樺太ルート>
 このルートは、他のルートほど渡来人がやって来ていたとは考えにくいとも言えます。
 その方面は、極寒の地でもあり、あまり人が多く住んでいたとも言えませんし、そんなにも人の行き来があったかどうかは、分かりません。あくまで、他のルートと比べるとという意味においてではありますが。
 
 大きくは、以上のようなルートが考えられます。
 中には、何らかの希望を抱いての渡来もあったかもしれませんが、それぞれに、様々な思いや困難を抱えての渡来ではなかったかと思われます。
 これらのルートから、大きくは4つの民族が渡来してきたと考えられます。
 では、それぞれの民族の渡来を検証してみましょう。

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