=歴史探訪フィクション=

人麻呂の怨・殺人事件

第12章  (1)

  「では、お先に失礼するよ」
  「疲れ様でした」
  三上が、恵美の横を通り玄関から出て行った。
  午前中のシンポジウムの片付けも終わり、午後が休暇となる職員は帰宅した。
  「やっぱり、出雲の蕎麦は美味しいよ。こちらに帰って来た時には、一度は蕎麦を食べないとね」
  そう言いながら、福山が戻ってきた。
  「お忙しい時に、お時間をいただきありがとうございます。この間、事件に深くかかわる万葉集を調べる中で、出雲王朝の存在に行き着きました。そして、王朝絵巻とも言えるような栄華と、無残にも滅ぼされる悲痛な思いを、人麻呂は詠い残していました。その都『やまと』や、美しき『吉野』、そしてこの列島を占領・支配したのは唐王朝、第三代皇帝李治とその皇后武則天ではないかと考えています」
  「ほう。すごいところへ行き着いたんだ。しかし、それを立証できる根拠は何かあるのかな」
  「それは、わが国に残されている万葉集や古事記・日本書紀、あるいは神社などにも、その痕跡は伺えます。ただ、もう少し分からないことが幾つかあります。それで、中国の史書にそういったことが残されていないか検証したいんです。一つには、出雲王朝の姿です。もう一つは、その出雲王朝が、本当に唐王朝に滅ぼされたのかどうかということです」
  「そうだねえ。そういったことが分かればいいけど、どうだろうね。とにかく、史書をチェックしてみようか」
  「よろしくお願いします。佐田君の方からは、何かある?」
  「そういうことで良いと思うよ。後で、また僕の方からは神在祭についてインタビューをさせてください」
  福山は、パソコンから中国の史書を紹介するサイトを開いた。
  「インターネットってのは、本当に有難いね。中国の史書もすぐに見られるんだからね。こんなこと歴史上かつて無かったことだよ。さて、この列島が初めて中国の史書に登場したのは、この『漢書』なんだ。一世紀後半に書かれているんだが、ほんの一行足らずの短い文章に、南海には倭人が住んでいて、百余国に分かれて、時々朝貢に来ていたとある」
  「およそ二千年前に書かれたんですね」
  「ただね、大陸の王朝が書き記しているから、当たり前なんだが、彼らの視点で書かれているんだよ。つまり、倭人とは、大陸の王朝から見下した表現なんだよ。遠い南方の島に住む、小さな奴らだといった蔑視した視点が、初めて登場した時から感じられるね」
  「ということは、この後もでしょうか」
  「そうだよ。王朝とは、人を見下す体制だからね。ただ、新唐書だけは、ちょっと違うんだよ。それ以後、つまりそれより新しい史書は見ていないから分からないけれど」
  福山は、続けて別の史書を呼び出した。
  「これが、三世紀の終わり頃に書かれた三国志魏書だ。この中にあるのが、よく言われるところの魏志倭人伝だよ。かなり詳しいよ。まず、この列島にやって来る道筋が書かれているんだ。ほら、ここを見てごらん」
  恵美は、福山の指摘するところを見た。
  
 始度一海、千餘里至對馬國

  朝鮮半島から初めて海を渡ると、千余里で対馬国に着くとある。対馬の対岸には今の釜山があり、その距離およそ50キロメートルだから、1里がおよそ50メートルに相当する。
  「今のわが国の1里とはかなり違いますね」
  「帯方郡から対馬に一番近い岸までが七千余里とあるから、およそ350キロメートル。帯方郡は、今のソウル周辺と言われているから、ほぼその距離に相当するよ。計算は合っている」

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國

  又、対馬から南に海を渡ると、『一大国』に至るとある。その距離は同様に千余里。つまり、対馬の南岸から50キロメートルの位置だから、今で言う『壱岐島』である。
  「『一大国』という国があったんですね」
  「そう呼ばれていたんだろうね」

 又渡一海、千餘里至末盧國

 又、海を渡ると、『末盧国』に至るとある。しかし、ここで問題となるのが、方角が示されていないということだ。その距離からすると北九州北岸ということには間違いないが、南西の平戸や松浦のあたりだとおよそ40キロメートル。南の唐津のあたりだとおよそ30キロメートル。南東の博多だとおよそ50キロメートル、そうなると博多が最も合致していることになる。その博多湾には金印が発見された志賀島もあるから、その地が大陸との交流の要所だったということでは一番整合性が高い。
  「当時、博多湾が、玄関口だったということなのかもしれませんね」

 東南陸行五百里、到伊都國

  次に、東南の方向に陸行するとあり、内陸部へ向かっている。そして、五百里行くと『伊都国』に到るとある。先ほどの平戸、松浦、唐津から東南五百里、つまり25キロメートルを行っても山だったり、それらしい拠点があったとは考えにくい。博多だと、ちょうど東南に平地が開けていて、ほぼ東南に直線で向かえる。その方向に25キロメートル行ったとすると、今の朝倉市甘木のあたりとなる。
  「伊都国は、甘木にあったと考えられる」
  「甘木ですか。詳しくは覚えていませんが、その辺りは、歴史的に何かあるんじゃないかって聞いたことがあります」
  「ちょっと、待ってよ」
  福山は、地図を画面に出した。
  「ほら、福岡から日田を通り大分へ抜ける街道があるだろう。北九州から久留米を通り大牟田へ抜ける街道、そして吉野が里や先ほどの唐津・松浦・平戸方面へ向かう街道、これらすべてが甘木で交差しているんだ。つまり、この甘木が要所だった、ということになるよ」

  「そうですよね」
  「それでね、今までの文章で『至る』というのは、ただその地に至るということで、また次へ向かうんだよ。ところが、伊都国では、『到る』とあるんだ。つまり、そこが、彼らの到着地点、目的地だったということだよ」
  「到着地点ですか?」

 郡使往來常所駐

 伊都国には、帯方郡からの使者が往来し、常に駐在しているとある。つまり、この伊都国が今で言う大使館に相当する。そして、その地は筑後川流域、つまり筑後平野を見渡せ、九州各地へとつながる要所だった。
  「なるほどね。甘木だと、地理的には一番機能的な位置になりますね」
  「あるいは、そこを境界として、大陸に近い北部地域が筑前、遠い南部地域が筑後とされているとも言える。いろいろな意味で、基準となる場所だったのかもしれないよ」

 東南至奴國百里

  「そして、周辺諸国の紹介があるんだ。まず、東南に百里、およそ5キロメートル行くと『奴国』があったことになる。つまり、先ほどの大分方面へ抜ける街道がちょうど東南にあたるよ。それを5キロメートル行くと、旧朝倉町のあたりだ」

 東行至不彌國百里

  「次に紹介されているのが、『不彌國』で、東に百里、こちらもおよそ5キロメートルということは、今の三奈木、佐田川沿いあたりじゃないかな。『奴国』は二万戸とあるが、『不彌國』は千戸余りだから、そんなに大きな国ではなかったのだろう」

 南至投馬國水行二十日

  「そして、南に水行20日で『投馬国』に至るとある」

 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月

  ここで、いよいよわが国の古代史を大きく賑わしている女王国が登場する。伊都国の南の方角に『邪馬壹国』があり、そこは女王が都としている所だと記している。そして、水行で10日、陸行で一ヶ月とある。ここに登場する女王こそが、『卑弥呼』である。
   『邪馬台国の女王卑弥呼』
  おそらくこのフレーズを知らない人はまずいない、というほど知られている。
  しかし、そこには、大きく言って二つの問題がある。
  その一つは、『邪馬台国』という文字では書かれていないということだ。ここには、『台』ではなく、『壹』とある。この文字は、『壱』、つまり数字の『一』を意味する文字で、よく神社とかで寄付金の表示の際に使われている。
  実は、この魏志倭人伝には、『邪馬台国』という表現はない。
  魏志倭人伝においては、女王国のことを、『邪馬台国』ではなく『邪馬壹国』、つまり『一国』だと記している。

  「『魏志倭人伝は、邪馬台国の女王卑弥呼について書かれている』と言われていますよね」
  「ほとんどの人がそう思っているんだろうが、ところが、そうは書かれていないんだ」
  「どういうことなんですか?」
  「だから、書き間違いだと見なされている」
  「見なされている?」
  「あるいは、写し間違いかと」
  「そうなんですか」
  「この後に編纂された『後漢書』に、『邪馬臺国』という表現があるんだよ。ちょっと、ここに書くよ」
  そう言うと、福山は、手元に持っていた資料の裏に文字を書いた。

 邪馬壹国 
 邪馬臺国
  
  「こちらの『邪馬壹国』が、魏志倭人伝に書かれている女王国の国名で、こちらの『邪馬臺国』は、後漢書に出てくる国名だよ」
  「よく似ていますね」
  「だろう。この『壹』と『臺』どちらも、今のわが国では、日ごろ余り使わないから見分けがつけにくいよね」
  「そうですね」
  「しかし、それは、今の『常用漢字』を使っているこの国の人たちがそう思うだけであって、当時、この史書を記した人も、同じように見分けがつかなかったと思う?」
  「さあ、それはどうでしょう」
  「仮にも、当時のその国を代表するほどの『歴史家』がだよ、国名を間違えて書いたと考えるのはいかがなものかと思うよ」
  「まあ、それもそうですが」
  「言ってみれば、文部科学省の研究者が、太平洋と書くところを犬平洋と書いたというようなものだよ。ちょっとあり得ないと思うんだけどなあ。でね、他にもこれらの文字がないかどうか調べたんだよ」
  「どうだったんですか」
  魏志倭人伝には、『一』を意味する『壹』は、卑弥呼が亡くなって次の女王の名前が『壹與』とあり、その名前が何回か出てきている。
  そして、もう一つの『邪馬臺国』の『臺』は、一ヶ所だけ登場する。魏国の使者が帰国するにあたって、その『壹與』の使者も随行するといったことが書かれており、その時に、『壹與』の使者が『臺』に詣でるとある。この『臺』とは、魏国の皇帝の居するところ、つまり、都のことを意味する文字である。
  「その『臺』という文字は、皇帝のいる場所を表す文字だったんだよ。今で言えば皇居を意味しているわけだ」
  「ということは、文字は似ているけど、意味は全く違うということですね」
  「そうなんだ。片や数字の『一』を表し、片や『都』を表している。そんな重要な文字を、うっかり書き間違えたり写し間違えたと考える方がどうかしているよ。その上、魏志倭人伝には、『壹與』とかの文字も出ているから、当たり前だが正確に書き分けている。だから、そこだけ書き間違えたとは断定しにくいよ」
  「じゃあ、どうして書き間違いだとされているんでしょうか」
  「何らかの意図があるのかもしれない。それと、『後漢書』とか、後の史書も関係しているんだ。とにかく、この魏志倭人伝には、『邪馬壹国』に女王がいたということは記されてはいるが、『邪馬台国』とか、『邪馬台国の女王卑弥呼』という表現は出てこないということなんだ」
   「そうなんですか」
  「では、もう一つの問題だが、それはその女王国の存在した場所だよ」
  「女王国の位置についても、長年議論されてきていますよね」
 朝鮮半島からやって来る道順で、海を何度か渡る時には『又』とある。だから、その順路にあることを表している。ところが、上陸して伊都国に着いて、その後に出てくる国の紹介には『又』は、ついていない。その伊都国には、帯方郡の使者が常駐しているとあるから、それ以外に紹介されている国は、伊都国を起点としていると考えられる。だから、女王国は、それらの国を経たのではなく、伊都国の南に陸を一ヶ月ほど、あるいは、水行、海を行くと10日といった位置にあるということになる。

  「女王国のあった場所は、何処になるのでしょうか」
  「甘木より南で、陸を行くと一ヶ月、海を行くと10日ということになると、北九州や中央部は考えにくい、そうなると南九州だよ。そして、都で七万戸ほどもある大きな拠点だったということは、それなりの遺跡も残されていると考えられる。それらを考え合わせると、その場所は一つしかないよ」  
 




                                   


  邪馬台国発見

  ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

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