=歴史探訪フィクション=

人麻呂の怨・殺人事件

第13章  (2)

  「出雲王朝とこの列島の歴史を消し去るためのね。実は、その倭王が出雲王朝の王だったという証拠と思えるような物も出土しているんだよ」
  「えっ?」
  「倭王が授かった品々の中に出てきたが、それに該当すると思われる『景初3年』という銘文の入った銅鏡が出雲で発見されているんだ」
  
島根県大原郡加茂町神原(現雲南市)、地理的には、358本の銅剣の発見された荒神谷遺跡や、39個の銅鐸が発見された加茂岩倉遺跡の東南に位置した所に、『神原神社古墳』がある。
  
1972年8月、
赤川の護岸工事の時に、神原神社の真下から古墳が発見され、竪穴式石室から刀剣や勾玉、そして三角縁神獣鏡と言われる中国製の銅鏡が発見された。その直径約23センチの三角縁神獣鏡には、『景初3年陳是作』という銘文が刻まれていた。
  「
『景初3年』の年号が入っているということは、景初2年に行った卑弥呼の使者の手には渡るはずはないだろう。そうなると、景初3年に造られた銅鏡が、翌年、正始元年、この列島の倭王に授けられた物だということにしか、ならざるを得ないんだ」
   「じゃあ、その倭王は、出雲王朝の大倭王だったということですよね」
  
「ところが、その『景初3年』の銘文の入った銅鏡は、卑弥呼から渡ったとされている」
  「そんな、時空を超えたようなことって」

   「だから、卑弥呼の使者が魏へ行ったのは景初3年だとされているんだよ。景初2年当時、遼東半島のあたりで公孫氏をめぐって抗争が起きていたから、そんな時に行けてないだろうという理由でね」
  「それは、どうなんですか」
  「当時、伊都国に帯方郡からの使者が常駐していたから、そういった情報は入っているはずだよ。そういう中にもかかわらず、卑弥呼が使者を送ったということは、魏国もそれを期待していたのかもしれない。何も知らないで行くことはないよ。つまり、朝鮮半島を勢力下にする上では、この列島の勢力と手を結ぶのは重要だろう。魏にはそういった思惑があったとも考えられる。それが、卑弥呼に下賜した品々にも現われているよ。卑弥呼の献上した品は、ほんのごあいさつといった程度のわずかな物だよ。あるいは、魏の方から呼び寄せたのかもしれないと思えるくらいだよ。魏が、正始元年に倭王に送った使者も、そういった朝鮮半島をめぐる思惑からではないだろうか」
  「でも、遼東半島のあたりで抗争があったら、通れないということはないでしょうか」
  「そんなところは通らないよ」
  「えっ?」
  「当時の魏の都は洛陽だよ。つまりその側を流れる黄河を舟で下り、そのまま山東半島の北を通って帯方郡まで直行できる。何も、わざわざ危険な陸を遠回りしてまで、時間をかける必要はない。当時の戦況も考えると、この列島からやってくる使者を、明帝は喜んで迎えたということじゃないかな。だから、むしろ明帝の生きていた景初2年でなければいけないんだよ」
  「そうなると、景初3年に行ったなんて、ほとんど歴史の改竄じゃないですか」
  「君のような視点は、出雲に都があったというところから出発しているからそう思えるんだよ。ところが、残念ながら、多くの人たちは、そんな視点は持ち合わせていないんだ。そういう歴史は消されているから、持とうとしても持てないんだ」
  「私も、出雲王朝が存在していたという視点で考えると、新たな世界が見えてくるというのは、万葉集で体験しました。今まで分からなかった解釈が『目から鱗』といったように見えてくるんです」
  「それと一緒だよ。こうやって話しながら、私も史書に対する認識が変わってきているんだ。宋書には、後漢書にも登場した武帝や、讃・珍・斉・興といった王が描かれているが、これもその内容からすると出雲王朝の王だよ。隋書に登場するこの列島の王もそうだよ。みんなつながってくる。ところが、そういったことが、その煙幕で全く見えなくされているんだよ。みごとなくらいにね」
  「どうしてそんなことに・・・」
  「梁書や北史・南史で、それまでの史書に記されていた内容が書き変えられているからだよ。そして、そういった書変えをしたのは唐王朝だ。その基本は、今見てきたように、歴史から出雲王朝を抹殺するためだよ」

   「それが良く分かるようなところはありませんでしょうか」
   「いくらでもあるが、これは本当に今まで何のことなのか分からなかった文章だが、やっと、その意図が見えてきたよ」
  福山はまた別の文章を出した。


 文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。

  梁書では、倭国に続いて『文身国』についての記述がある。そして、この国の人たちの額には『三』という文字があり、体には獣のような刺青をしているとある。体に文字やそういった刺青があるから『文身国』ということなんだろうが、このような国名はそれまでの史書にはない。
  獣のような刺青ともあるが、魏志倭人伝にも九州の方の民族が全身に刺青をしているとあった。ただ、それは、海に潜って魚介類を捕獲する時にサメに襲われないために施されていた。
  そして、この『文身国』の人々は、豊かではあるが賤しくて、お客があっても食べ物など出さないとあり、さらに、その国の王は、金銀財宝に囲まれていて、その周囲には水銀が雨ざらしになっているともある。
  「これらの『文身国』の描き方には、何かしらの意図が感じられるんだよ。その国名にしても、国民性にしても、極めて恣意的に描いているように思える。そして、国王に至っては、水銀がたっぷりとあるのに雨ざらしにしているなどといった紹介を、ここで、何故敢えて記載をしているかなんだよ」
  「どうしてなんでしょうか」
  「大陸の王朝では、古来から仙薬を服用することで不老不死の仙人になれると言われていたんだ。つまり、その仙薬とは、水銀を原料にしているんだよ。古くは、紀元前に徐福がこの列島にやって来た、といった言い伝えもあるが、それはこの水銀を求めていたとも言える。また、水銀は、朱色や大仏に塗金するなど金加工には欠かせない貴重な鉱物だったんだよ。今で言えば石油といったところだろうか。唐王朝は、その文身国と言われる国の水銀を密かに狙っていたのかもしれない」
  「水銀をターゲットにしていたということですか。では、文身国とは、何処にあったのですか」
  「その冒頭に、倭国が帯方郡から12,000里にあると書いているということは、卑弥呼の地を想定している」
  「はい、そうあります」
  「これは、魏書にあった記述と距離関係は同じだよ。ということは、その文身国は、西都原から東北7,000里にあったことになる。およそ、350キロメートルの位置だ」
  恵美は、画面に地図を呼び出した。
  「宮崎の西都市のあたりから、東北に350キロメートルですよね」

  恵美と祐介は、ペンでその距離に相当する長さを地図に宛ててみた。
  「ええっ!」
  「ちょうど、出雲になります」

   「つまり、唐王朝は、出雲王朝の支配していた水銀鉱脈を手に入れることが狙いだったということだよ。そのために、その地にあった都を消し去り、人々が体に刺青をしている『文身国』などという呼び方の国を創作した」
  「そう言えば、島根半島の東にある全国の恵比寿神社の総本社が美保神社になるんですが、その神紋は『三』です。額の文字が『三』というのは、それを意味しているのかもしれません。でも、全身に刺青なんかしていたんでしょうか」
  「そんな刺青は、南方の海洋民族の風習だよ。出雲では海に潜ることを主としてはいないから、全身に刺青をする必要性は生じない。つまり、ターゲットの出雲の勢力を、悪者にするための手法だろう。桃太郎のお話みたいなものだ。悪者や鬼に仕立て上げさえすれば、あとは強奪しても英雄だよ」
  「どうして、唐がこんな南方の列島を征服したのか、その動機がずっと疑問だったんですが、やっと分かりました。水銀だったんですね。そうなると、あとは、征服の軌跡があればいいのですが、そういった記述は残されていないんでしょうか」
  「そう都合よく残されていればいいけど、きっと、それも消されているよ」
  祐介は、半分あきらめた様子だった。
  「あるいは、これが相当するかもしれないよ」
  「あるんですか!」

   福山は、画面に別の史書を呼び出し、二人はそれに見入った。
   「これは、資治通鑑と言って、歴史を年代順に書き記しているんだ」
  660年3月、百済と高句麗が新羅に侵攻し、新羅が唐に援軍を要請する。それ以後朝鮮半島は戦乱状態になり、その8月、唐は、現在の韓国の中ほどにある広州のあたりに、彼等の拠点となる熊津都督府を置いている。また、その10月には、皇帝が、目眩や頭痛に悩まされ目が見えなくなることもあったとある。そして、次第に皇后武則天がその実権を掌握していった。
  「当時の、第3代皇帝李治は、あるいは、水銀中毒だったのかもしれない」
  「水銀が、長寿の仙薬だなどと思われていたんですから大変ですよね。でも、実権を掌握するほど力を持っていた武則天自身は、使わなかったんでしょうか」

   「さあ。それはどうだろう。661年になると、百済は唐にかなり攻め込まれるんだが、その3月百済府城を制圧していた唐の武将劉仁願が、百済の兵に包囲されてしまうんだ」
  「百済も巻き返していたんですね」
  「最後の踏ん張りといったところだろうか。そこで、唐は、その救援に劉仁軌を送り込むんだ。仁軌は、前年に兵糧船を転覆させて処分を受けていたから汚名返上とばかりに、意欲を燃やしている。ここには、彼の言葉が残されているよ」
  二人は、その部分を見た。

 「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」

   『我は、東夷を一掃し、大唐の正朔を海表に頒布するぞ』と述べている。正朔とは、暦のことで、唐王朝の暦に従わせる、つまり並々ならぬ征服欲を語っている。そして、仁軌は、向かうところ敵なしといった勢いで侵攻し、仁願を助け、百済軍は万余人が戦死した。新羅も出兵するが、ここでは百済軍に破れた。
  「一進一退といったところでしょうか」

   「そうかもしれないね。百済も死力を尽くしていたようだ。その7月には蘇定方が高句麗を攻め、平壌城を包囲したともあるよ。しかし、包囲はしたものの苦戦し、翌662年2月に、大雪のため帰国している」
  「唐王朝もそう簡単にはいかないようですね」

   「熊津都督の仁願と帯方州刺史の仁軌も、熊津城を占拠していたんだが、百済軍に包囲され兵糧も補給できなくなっていた。それで、その七月、皇帝は新羅へ戻るか、あるいは帰国せよという指示を出している」
  「では、帰国したんでしょうか」
  「ところが、仁軌は、その指示には従わなかったんだよ」
  仁軌は、『高句麗を滅ぼすために先ず百済を攻めた。平壌の我が軍が帰国し、この熊津からも手を引いたらいつになったら高句麗を滅ぼせるのか。今、敵地の真只中にいる。下手に動いたら捕らえられる。機会をうかがい、不意をつけばチャンスが生まれる。動いてはいけない』と言っている。

   そして、仁軌は、その作戦どおり、包囲していた百済軍の不意をつき、新羅への補給ルートとを確保した。一方、百済軍の内部には乱れが生じ、高句麗や倭国へ援軍を求めるに至っては、完全に攻勢から守勢に回っている。そして、12月に、唐王朝は、高句麗・百済討伐の詔を発し、反抗する勢力の殲滅に乗り出した。
   百済から支援を要請された倭国は兵を送り、663年9月、百済と倭国、それに対抗する唐と新羅の大決戦となった。仁願や新羅軍は陸を行き、仁軌は水軍を率いて白江に入り倭国の船団と遭遇している。しかし、この戦いで、倭国軍は、熊津の下流にあたる白江口で全滅してしまう。
  「倭国軍は、劉仁軌に惨敗したということですか」
  「この時の戦いが、『白村江の戦い』と言われている」

   福山は、その部分を示した。

 遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤

   今の錦江の河口あたりに倭国の船四百隻がやって来たが、ことごとく敗れ去り、煙炎は天を焦がし、海は赤く染まったとある。仮に、一艘に50名ほど載せていたとしたら、およそ2万人。陸を行った兵も合わせると、相当な数の兵士が、その戦闘で命を落としている。当時のこの列島の人口を考えると、主力となる戦力が失われたことになる。
   「もし、この後、攻められたとしたら、対抗する戦力は無かったかもしれませんね」
  「この戦いの後、仁願らは帰国しているが、仁軌は兵と共に残っている。そして、戦後処理といったことを行なっているんだ」
  百済は、戦火で家屋は焼け落ち、屍が野に満ちていた。仁軌は、それらを埋葬したり、村に人を集め、戸籍を作ったり、道路・橋梁・堤防などを修復し、生業を推奨し、正塑を頒布している。そして、屯田を進め兵糧を蓄え、兵士を訓練して高句麗攻略に備えたとある。

   「この列島も、同じような状況だったのかもしれませんね」
   「仁軌は、この列島についても語っているよ」
   「本当ですか」
   「664年10月、白村江の戦いの翌年なんだが、検校熊津都督だった仁軌は、本国へ一時帰国して、皇帝へ進言しているんだよ」
  『現地の兵は疲弊しており、帰国することばかり考えています。ある兵に聞くと、海を渡って出兵しても記録もされず、戦死しても名前も聞かれず、富める者は若くてもお金で兵役を逃れ、貧しい者は老人でも連行される。こき使われるばかりで、いつまでも返してもらえないと嘆いているばかりです。赴任して一年なのにどうしてそんなにくたびれた有様だと聞き、その兵士の衣類を見ましたら、今年の冬は越せても、来年の冬はどうやって過ごせましょうか』といった、守備兵の状況を伝えている。

   「大陸から送られてくる兵士も大変みたいですね」
   「この次に、仁軌は、興味深いことを述べているんだよ」
   福山は、先に進めた。

 陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共  爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田

   仁軌は、『陛下が、兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼす為です。百済と高句麗は、互いに支え合い、倭人も遠いとは言え共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、元の一国に戻ってしまいます。今、守りを固め屯田を置きました』と述べている。ここには、貴重な事が述べられている。まず唐は、高句麗を滅ぼすために、ひいては東アジア制圧のために、『海外』、つまりこの列島を既に支配下にしていた。そして、この列島と大陸からと、朝鮮半島を挟むようにして睨んでいた、ということである。
   「東アジア制圧ですか。かなり、思惑をはっきりと述べていますね」
   「高句麗、百済、倭国というこの三国は、東夷だからね。東夷とは、東方の穴倉に住む狢といった大陸の王朝から周辺諸国を蔑んだ蔑称だよ」
   「福山さん。その次、すごく気になっているのですが・・・」
   「ここだろう。これは、かなり重要だよ。守備兵がいなくなったら、元の『一国』に戻るということは、元は『一国』があったということを唐の武将が認識していたことになるんだ。つまり、仁軌は、『一国』と『大国』があったこの国の、『大国』の勢力は一掃したが、引き続き制圧しておかなければ、その一方の『一国』に戻ると述べていることになるよ」
  「まさしく、この列島が唐に征服されていたということだけでなく、『一国』が存在していたことまで述べているのですから、驚きです」
  「そして、征服した後も、『屯田』と言っているように、長期間にわたって占領下に置かれていたことをも意味しているよ。この列島は、間違いなく唐王朝に征服され、占領されていたということだよ。664年の10月に赴任1年後と述べているから、この列島が征服されたのはその1年前、すなわち、白村江の戦いの直後で、663年10月だったということがほぼ確定されたとも言えるよ」
  「ここまで明瞭に残されていたとは驚きです。やはり、出雲の『神在祭』は、出雲王朝が滅ぼされていたことを伝えていたんですね」

  「そして、仁軌の進言を受けて、皇帝は、仁願に兵を与えて守備兵を交代させているよ。仁軌にも帰国が促されるんだが、ところが、仁軌はそれを断っている。当時、仁軌は還暦を過ぎていて、普通なら、交代して帰国しそうなものだが、何か思惑があったのかもしれない。それについてもここで語っているよ」
  『国家が軍を海外へ置いているのは、高麗計略のためだが、これは簡単にはいかない。その上、夷人は服従したばかりで、人々の心は安んじていない。兵士も軍将も交代していては、必ず変事が起こる。まだ帰れない』と述べている。
  「仁軌は、マッカーサーのごとくに、この列島に残り、戦後処理、つまり、唐王朝の傀儡国家にするために残っていたと考えられる」
  「では、仁軌は、いつまでこの列島に残っていたのでしょうか」
  「九州にある大宰府跡には、『都督府跡』といったものも残されている。あるいは、都督だった仁軌は、ここを拠点にしていたのかもしれない。そして、この資治通鑑でも触れているが、旧唐書には、665年に『新羅、百済、耽羅、倭の4国の酋長』を仁軌が連行し、高宗は甚だ悦んだとある。つまり、これが、仁軌の勝利の凱旋帰国だよ。それから5年ほど倭王は抑留させられているから、反抗封じの人質とも言える」
  「完全に征服させられたということですね」
  「そういうことだね。あるいは、先に検証した春日大社に奉られている
武甕槌命とは、この仁軌を意味しているのかもしれないよ。まあ、とりあえず、こういったところかな」
  恵美は、心のどこかで、唐王朝によるこの列島征服の軌跡が覆されないだろうかとも思っていたが、これで、ほぼ確定的となった。
  「思っていた以上のことが、分かりました。とても、私たちだけでは、ここまで検証することはできませんでした。本当に感謝します」
  「こちらの方こそ感謝したいよ。今まで、理解できなかったことが、見えてきたんだからね。でも、まだまだ、解明しなければいけないところがたくさんある。今日到達した新たな視点で、もう一度色々なことを見直さなければならない」
  「私も、史書と出雲王朝の歴史とつき合わせをしてみようと思います。そこから、また新たな何かが見えてくるかもしれませんしね」
  「そのあたりをチェックして、もう一度話ができるといいんだが・・・」
  「ぜひ、私もお願いしたいです」
  「あのう。いいですか」
  祐介が、二人に話しかけた。
  「個々の事象については、かなり分かってきているようには思うのですが、時系列といいますか、年代を追っての流れというところでは、もう一つ良く分からないところがあるんです。大陸と、この列島でどう関連していたのかといったところなんですけどね」
  「そうだな。年代を追って見ていくのもいいかもしれない。では、次回はそのあたりを考えながら検証しようか」
  福山と祐介は、それぞれ帰っていった。
  恵美は、中国の史書を検証したことで、この列島の歴史がかなり紐解かれたように思えた。
  しかし、一方で、どうしてこれらの史書があまり議論されてこなかったのか、少々疑問でもあった。
  ・・・中国の史書に、わが国の歴史の謎を解くカギがあるのにね。




                                   


  邪馬台国発見

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