=歴史探訪フィクション=

人麻呂の怨・殺人事件

第13章  (1)

  「ご苦労様でした」
  恵美が、玄関で刑事を見送っていた。
  「どうもすみません。お待たせしてしまいました」
  「何か事件の捜査に進展でもあったの?」
  祐介は、ちょっと心配そうに聞いた。
  「あまり詳しくは言ってなかったけど、もうすぐある『神迎祭』に父も参加するのよ。それでね、警察がそれを聞いたらしくて、父に、もしかすると次のターゲットにされているかもしれないので、見合わせたらどうかと言ってきたの」
  「『神迎祭』にお父さんが出るんだ」
  「今年は、出雲大社周辺から地元の自治会とか商工会の代表も特別に参加することになったのよ。それで、この研究所の代表というか、プロジェクトの関係もあって父が出ることになったの」
  「そうなると、夜だから確かに危険かもしれないなあ」
  「でも、父は、周りには人が大勢いるし、まさかそんな中で襲ってくることはないだろうから参加すると言っていたわ」
  「大丈夫かなあ」
  みんなが心配そうに話をしていると、加藤理事長が出てきた。
  「では、先に帰るが、恵美も十分気をつけるように。夜はあまり出歩かない方がいいよ」
  「はい。やっぱり、神迎祭には出るの?」
  「大丈夫だ。あんなに大勢の人がいるんだよ。それに、まだ、ターゲットにされているかどうかも分かっていない」
  「そうだけど。ところで、お父さんに一つだけ聞きたいことがあるの」
  「何だ?」
  「恒哉さんが亡くなったのは、本当に事故だったの?」
  恵美の言葉で、加藤理事長の顔色が変わった。
  「今頃になって何を言い出すんだ。事故に決まっているだろう。その場にいた三上君もそう言っていたじゃないか。事故でなかったら、何だと言うんだ。まさか、私が殺したとでも言うのか」
  「そんなことは言ってないわ。でも、ちょっと引っかかっているのよ」
  「すでに、決着のついたことだろう。もう彼のことは忘れなさい。じゃあ、帰るよ。とにかく、気をつけるんだよ」
  「はい」
  加藤理事長は、少々憤慨して出ていった。
  恵美は、ちょっとうつむき加減で席に戻った。
  「ごめんなさいね。変な話をして」
  「大変だね」
  祐介は、何と声をかけたら良いのか困った。
  恵美は、未だに山内恒哉のことが忘れられないでいるのかもしれない。
  そして、その事故に何か疑問を抱いているようにも思えた。
  「福山さん、折角のお話を途中で止めてすみませんでした」
  「僕の方は一向に構わないが、本当に、お父さんは大丈夫だろうか」
  「本人は、あまり危機感がないようです」
  「心配だね。じゃあ、再開しようか。どこから始めようか」
  「私、出雲王朝の姿が、何か描かれていないか、それが知りたいんです。特に、消されているという大倭王やその『邪馬臺国』についても。それが、出雲王朝の姿なのかもしれませんし」
  「そうだね。では、それと思われるようなところを見ていこうか」

  國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢
 諸國、諸國畏憚之


  魏志倭人伝では、各国々に市が出て、いろいろな物を交易していて、それを『大倭』の役人が監視しているとある。そして、女王国より北には、特に『一大率』を置いて、諸国を検察しており、諸国は畏怖しているともある。
  「『大倭』が大きな力を持っていたようですね」
  「そのようだね。特に『一大率』とは、警察のようなものだろう。かなり、統率がとられていたようだ」
  「この『大倭』の大とは、出雲王朝の大国を意味しているとは考えられませんか」
  「なるほど、『大』という『倭』ということかな。では、『一大率』とは、『一』と『大』との統一した機構ということだろうか。もう少し見てみようか」

 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。
 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、
 無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者

  その国には、元々男王がいたが、その後、争乱状態にあったと述べている。そして、一女子を王として共立し、それが、卑弥呼と呼ばれた。卑弥呼は年長だったが、夫はなく、弟が補佐して国を治めていたとある。『共立』ということは、二つの勢力があり、卑弥呼を王に立てることによって統一したと考えられる。
  「二つの勢力ですか」
  「『共立』とは、そういうことだよ。そして、卑弥呼を王としたんだ。ということは、その二つの国とは、『大』と『一』という国だとも言える。『一女子』とは、一人の女子とも読めるが、『一国』の女子とも読めないことはないよ」
  「あっ、福山さん。女王国の国名は『邪馬壹国』とありましたよね。その『一国』とは考えられませんか」
  「なるほどねえ。卑弥呼を女王とすることで、『一国』と『大国』は、統一した勢力として落着いた。そういうことなのだろうか」
  その福山の言葉に祐介は、あることが閃いた。
  「今、ふと浮かんだのですが、それって、『天』につながりませんか」
  「『天』とは?」
  「『天の香具山』の『天』ですよ。あの『天』が何を意味していたのか良く分からなかったんです。つまり、『一』と『大』が統一して『天』が生まれたということじゃないかと思ったのですが。もしそうだとしたら、逆に『天』という文字を構成するには『一』と『大』が必要です。つまり、卑弥呼を『共立』した時に『一国』と『大国』が誕生し、その象徴として『天』が生まれた、ということではないでしょうか」
  「う~ん、どうだろうねえ。面白いけどねぇ」
  福山にも新たな視点が見えては来たものの、まだ確証を得るほどではなかった。
  「その象徴の『天』は、統一した勢力により全国で奉られていったんじゃないかと思うんです。その場所が神社だとすると、神社の前にある鳥居は、その『天』を意味しているのかもしれません。『天』の形に似てませんか?」
  「う~ん。ちょっと強引だけど、そういう考え方もできるかもしれないね。午前中は古墳のことについていろいろ聞いたが、あるいは、前方後円墳も『一国』である九州の円墳と、『大国』である出雲の方墳を合体させたものかもしれないな。出雲の勢力と九州の勢力との統一という意味でね。君たちと話しているといろいろなことが見えてはくるが、だが、どこまでそれが実証できるかどうかは難しいよ。どちらにしても、いろいろな角度から検証することが大事だということなんだろうけどね」
  「ちょっといいですか」
  恵美は、パソコンから神社のサイトを開いた。
  「宮崎は、日向国で、一宮は、都農(つの)神社のようです」
  恵美が、その都農神社のサイトを出した。
  「あっ、恵美さん、神紋が丸の中に『一』だよ」
  「『一国』の象徴の『一』が、残されていたのかもしれないわね。それに、この神社の名前が『都農』と『都萬』、まるで『殿』と『妻』みたいね」
  「あるいは、スサノオ尊と卑弥呼を意味しているのかもしれないよ」
  「私、福山さんの話を聞いていて思ったことがあります。弟が補佐して国を治めていたとありましたが、それって『佐の王』、つまり『すさのお』ということにはならないでしょうか」
  「『さのおう』、『すさのお』確かに似てはいるなぁ」
  「卑弥呼は、呪術的な行為をしていて、女王になって以来その姿を見た者は少ないとありますから、ほとんど、その弟が実質的な支配者だったのではないでしょうか」
  「その時誕生した『一国』の女王が卑弥呼で、『大国』の王がスサノオ尊という訳か。ということは、その後は、大国主命に受け継がれていったということだろうか。そのあたりをもう少し見てみようか」

  景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉 夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑 彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男 生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢 獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付 帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。

  景初2年(238)6月に、倭の女王が使者を魏へ送っている。まず、帯方郡で天子に朝献したいと要請すると、太守劉夏は、使いをつけて都へ詣でさせている。 そして、その年の12月に、明帝は、倭の女王に宛てた詔書を使者に持たせている。そこには『親魏倭王卑弥呼に制詔する』とあり、相当、見下した表現をしている。これは、漢書にもあったように、大陸の王朝がこの列島を蔑視していたということの現われでもあるが、また一方では、かなり友好的に思っていたことも伺える。
  そして、卑弥呼が、男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を献上したことに対し、明帝は、『汝がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、朝貢してきた。これは汝の忠孝の表れであり、甚だ哀れに思う』と、哀れんでいる。そして、『
今汝を親魏倭王とし、金印紫綬を授け、封印した後に帯方郡の大守に届けさせる。汝は、それを人々に見せて孝順させなさい』とも言っている。
  「卑弥呼が金印を授かったというのはここに書かれていたんですね」
  「さらに、明帝は、多くの品々を授けているよ」

 白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也

  
これらの品々は、皆装封され、使者に託されている。そして、『使者が還ってきたら目録と照らし会わせ、その全てを汝の国中の人に示して、魏国が汝を哀れんでいる事を知らしめなさい。だから、魏国は、鄭重に汝に好物を下賜するのである』といった卑弥呼にあてた詔書を使者に持たせている。
  「たくさんの品々が渡されていますね」
  「景初2年6月に行き12月に帰国しているということは、かなりの滞在をしている。おそらく、その品々、特に銅鏡百枚を作成するための期間だったのかもしれないよ」
  「詔書にもありますが、相当、丁重に対応したみたいですね」
  「この時に、金印が授けられているだろう。おそらく、西都原のあの円墳に卑弥呼と一緒に埋葬されている可能性がかなり高いよ。盗掘にあっていなければなんだけどね」
  「どうなんでしょうか」
  「どうも、盗掘の痕跡があるんだよ。だが、玄室までは到達していないと見られているが、果たしてどうだろうね」
  「調査がなされるといいんですけどね」
  「宮内庁が厳重に管理しているから、全くそういった調査はできないみたいだ。何か都合でも悪いのかと思ってしまうよ。そして、さらに重要な記述があるんだ」
  福山がその場所を指摘した。

 
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦?、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。


   正始元年(240)、魏の使者が、詔書や印綬と一緒に、金や錦、刀、銅鏡などを、倭王に授けている。そして、倭王は、謝恩の上表文を、使者に渡している。
   「卑弥呼の使者が行った2年後ですね」
   「そう。そして、正始4年に、倭王は、答礼の使者を魏へ送っている」
   「ということは、倭王と倭女王と双方に魏は印綬や詔書、下賜物を渡したということになりますね」
   「魏は、かなり丁重に応対しているという印象を受けるよね。倭王に対しては、詔書や印綬を授けることを『奉』と表し、倭王に会うことを『詣』としている。これは、おそらく数多くある史書の中でも異例中の異例かもしれない」
   「どういうことなんでしょう」
   「つまり、卑弥呼へ送られた明帝の詔書では、何度も『汝』とか『哀』という文字を使っていたが、倭王への視点はそれとは全く違う。卑弥呼に対しては上から見下ろしているが、倭王に対しては仰ぎ見ているんだ」
   「そのようです」
   「魏は、倭王をかなり強力な王だと見ていたということだろう。だから、倭王から使者を送ってもいないのに、魏の方から先に使者を送り、尚且つ、仰ぎ見ている」
   「確かに、そう考えると異例ですよね」
   「おそらく、それには、当時の魏国の事情があったのではないかと思える」
   「どんな事情でしょうか」
   「実は、卑弥呼の使者が帰った直後、景初3年の正月にその明帝は亡くなっているんだ」
   「そうなんですか」
   「当時、皇帝が亡くなると1年は喪に服して公式行事は行われなかったと言われていて、次に皇帝に即位したのはまだ8歳の斉王なんだ。そして、喪の明けた正始元年、魏は、倭王に使者を送ってきた」
   「8歳って、まだ子どもじゃないですか」
   「魏は、大陸では他国と対峙している。そうなると、敵対関係にならないように、背後にいる強力な倭国の勢力を手なずけておく必要があるだろう。幼少の皇帝を抱えた魏の苦肉の策ではないかと思われるよ。まあ、あくまで憶測に過ぎないけどね」
  「それにしても、倭王は相当な力を持っていたということなんですね」
  「あるいは、この倭王こそが『大国』の王、いわゆる『大国主命』なのかもしれないよ。ところが、今、わが国では、この倭王は消されているんだよ」
  「やはり、消されたんですか」
  恵美と祐介は、思わず身を乗り出した。

  卑弥呼のことを『親魏倭王』と明帝が詔書の中で記していた。だから、その次に出てくる倭王も卑弥呼だと見なされている。だが、卑弥呼が使者を送ったのが景初2年(238)で、魏が使者を送ってきたのが正始元年(240)だから、全く異なる年である。それに、卑弥呼と倭王とは魏からの視点も異なる。それを、無理やり、卑弥呼の使者は景初3年に行った、などと歴史が書き変えられている。景初3年の正月に明帝が亡くなって喪に服しているところに、半年も滞在したといったことが、何の疑問を持つこともなく述べられている。
  さらに、魏国は、卑弥呼に金印や詔書、たくさんの賜物を授けたとある。その上また正始元年に同様に、印綬や詔書、賜物を届けている。そんな短期間に、二重にも授けたことになる。そのため、景初3年は詔書だけ渡されて、下賜された品々は正始元年に届けられたと見なされている。つまり、卑弥呼の使者は半年待たされたあげくに手ぶらで帰ったということのようだ。封をして使者に持たせたとまで書かれていることと矛盾する上に、正始元年に届けられた品物は目録と全く異なる。この魏書を読む限りにおいては、倭王と倭女王へそれぞれ別々に渡されたと考えざるを得ない。
  それに、景初3年には、明帝は亡くなっているとなるとあの詔書は、いったい誰が書いたのであろうか。おそらく、八才の新皇帝が書いたとか、すでに亡くなる前に明帝があらかじめ書いていたとか、誰かが代筆したと『見なされる』のであろう。
  「やはり、卑弥呼の使者が景初3年に行ったというのは、どう考えても変ですよね」
  「これらの『推論』には、一つの前提があるんだよ。それは、卑弥呼とは異なる別の倭王が存在していたなどという認識が全くないということなんだ。ましてや、その倭王が出雲王朝の王だなんて誰も考えていないよ。この列島の王は、卑弥呼だけだと思い込んでいるから、そういう結論にしか行きつかないんだよ。つまり、煙幕だよ」
  「煙幕ですか?」




                                   


  邪馬台国発見

  ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

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