=歴史探訪フィクション=

人麻呂の怨・殺人事件

第16章  (1)


  二人が図書館に戻ると、まだ福山の姿はなかった。
  「いろいろ検証してきたけど、歴史の背後には、民族の積年の怨みとか、表面には出ないこともたくさんあるんでしょうね」
  「そうかもしれないな。唐王朝は、この列島を支配していた出雲王朝を歴史から抹殺しているだろう。やはり、鮮卑としては、匈奴の流れにある『大国』に対しては、相当深い怨みを抱いていたということなのかもしれないよ」
  「かなり、時は流れているのにね」
  「ただ、出雲王朝の方は、どちらかというと、隋書に登場していた倭王の言葉にもあったように、礼儀というか、礼節といったことを重視していたようだ。だから、余計に隋王朝のように他国を属国扱いするようなことが、許せなかったのではないだろうか」
  恵美は、パソコンの画面に、隋書を出した。
  「それは、600年に朝貢に行った使者が紹介している、出雲王朝の官位にも現われているかもね」

 
大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信

  「徳、仁、義、禮、智、信。なるほど、そういった人徳が重視されていたんだ。そう考えると、出雲王朝は、かなりの善政を行っていたのかもしれないね」
  「ところが、これは官位12階といって、聖徳太子が導入したとされているのよ」
  「聖徳太子が? そういえばそんなことを歴史で習ったような気がする」
  「600年の第1回遣隋使を派遣した時の教訓から、603年に導入された、とされているわ」
  「そんなの全くあり得ないよ。600年に行った出雲王朝の使者が、自らの国の官位制度について、そこで述べているんだろう。意味不明だよ」
  「日本書紀には、そう書かれているみたいね」
  「それが、この国の歴史なんだろうな。出雲王朝の歴史を隠すために、聖徳太子という偶像が作られたのかもしれない。まるで、創作劇だよ」
  「徹底した出雲王朝隠しよね。やはり、相当な怨みがあったのかしら」
  「ほとんど怨念に近いよ。匈奴に滅ぼされた東胡の怨念とでもいったところなのかもしれない。そういえば、『怨み』とあったよなぁ・・・」
  祐介は、話をしながら、事件のことを思い浮かべた。
  「どうしたの?」
  「今回の事件のことなんだけどね。出雲王朝や人麻呂の怨みとあったから、ずっと、そこに目がいっていたけど、あるいは、もっと最近のことに端を発しているんじゃないだろうか、って思うこともあるんだよ」
  「最近のこと?」
  「言いにくいんだけどね。加藤理事長に関わる事故があっただろう」
  急に、恵美の顔が暗くなった。
  「詳しくは、よく分からないんだけど。君も、そのことを単なる事故とは思ってないように言ったので、昨年の新聞記事をチェックしてみたよ。君の辛い過去に触れるようで、なかなか言い出せなかったんだが、でもそこに何らかの動機があるようにも思えるんだよ。気に障ったらごめんね」
  「そんな遠慮なんかしなくていいのよ。で、佐田君はどう思うの?」
  「歴史やプロジェクトとの関連が大きいのかもしれないけど、その動機となるには、もっと心を動かすような何かがあるんじゃないだろうか。そこに、その事故が関連しているようにも思えるんだ」
  「なるほどね。二つの要素が絡んでいるのか、あるいは、犯人は複数なのかもしれないしね。それぞれの思惑が一致したということも考えられるわね」
  「はたして、山内恒哉さんが亡くなったのは、単なる事故だったのかどうか」
  「事故じゃなかったということ?」
  「それは、僕には分からないが、むしろ君の方がそう思っているんじゃないのかい」
  「そうね。そうかもしれない。今更、何をどうこうしたところで恒哉さんは戻ってこないわ。でも、もし、事故でなかったとしたら、本当のところはどうだったのか明らかにしないと、恒哉さんは余りにも無念な死を遂げたことになるのよね」
  「でも、どうして事故ではないと思うんだい?」
  「人って、そんなに簡単に死ぬのかしら。確かに、打ち所が悪かったのかもしれないけど。どうしても、私には信じられなくて。でも、何も確証となるような物はないの」
  「もし、事故でなかったとして、どうしたら、その真相が分かるんだろう」
  「お父さんに聞くか、または、その場にいた三上さんに聞くかよね」
  「三上さんって理事長補佐の?」
  「そう」
  山内恒哉が、奉納山の頂上の斜面から数メートル下の道に落下し、加藤理事長が急いでその場所に降りると、三上がその場にやって来た。その道は斜面に沿ってらせん状になっていて、その道を上がってきた三上が、すぐに救急車や警察を手配した。加藤が道を下ってくるところを見たと、三上が証言し、また警察も調べたが、特に事件性はないということで事故扱いとなった。
  その日は、神殿建設の現地調査の日でもあった。建設予定地が変更になるということを受けての調査だった。恵美は行ってなかったが、加藤と恒哉が奉納山の頂上で、三上のグループは階段予定地、あとは神殿予定地という三ヵ所に分かれての調査だった。三上は、加藤に指示を仰ぐことがあるということで、頂上に向かう途中、その事故に遭遇したとのことだった。
  「事故のあった時刻は?」
  「ちょうど正午頃だったかしら。確か、三上さんが頂上に上がる時に、正午を知らせるサイレンを聞いたと言っていたわ」
  恵美は、あまり思い出したくない記憶ではあったが、当時の事情を祐介に話した。
  「どうして、恒哉さんは、落下したんだろう」
  「父が、斜面の辺りで調査していてバランスを失い、斜面から落ちそうになったところを、恒哉さんが助けようとしたそうなの。ところが、反対に、恒哉さんの方が、落ちてしまったということだったわ。そして、落ちたところに、たまたま運悪く石があり、そこに頭を打ったのが致命傷になってしまったの」
  「確かに不運と言えば不運な話だ。恵美さんは、それが果たして本当に事故なのかどうか、と思っているんだ」
  「でも、今更、本当に事故だったのかなんて三上さんに聞く訳もいかないし。父も事故だって言うだけだから、私には確かめようがないのよ」
  「そうだよなあ。確かに、どうすることもできそうにないよな。
その前に、事故でないということになると、お父さんを疑うことになる訳だし、お父さんが、そんな事をする訳ないだろうしね。そもそも、そういったことに至る動機があったなんて思えないんだよね?」
  「実は、亡くなる前に、恒哉さんがプロジェクトの調査費に不正経理の疑いがあるようなことをちらっと話していたのよ。どこまで確証があったのか、私には分からないけど。もしかしたら、それで口論になった可能性だってあるのかも」
  「不正経理の疑いだって?」
  祐介には、全く予想もしなかったことだった。
  「でも、私は証拠なんて持ってないから何とも言えない話なのよ」
  「なるほど。恒哉さんは、そういったことを話してたんだ」
  「そうなの」
  「何かつかんでいたのかなあ」
  二人が、思い悩んでいるところに福山が戻ってきた。
  「どうも、遅くなってしまって申し訳ない。近々、学生を中心としたシンポジウムが開かれるんだよ。そこにパネラーとして出ることになったもので、その打ち合わせが長引いてしまって」
  「パネラーですか?」
  「島根県の食文化を考えるといったシンポジウムなんだが、そこに、全国の主な食文化を紹介するといったことで参加するんだよ。そうだ、おそらく山陰日報社にも取材依頼が行くと思うので、その時はよろしく」
  「それは、面白そうですね。ぜひ、お伺いしますよ。あっ、でも文化・芸能担当の記者が行くかもしれないなあ」
  「どなたか来ていただければありがたいです。どうぞ、よろしく」
  「また、伝えておきます」
  「さて、史書も、いよいよ次は、唐の時代かな。では、『旧唐書』を見ることにしようか。旧唐書は945年に編纂されていて、貴重な資料が満載だよ」
  福山は、画面にその資料を出した。

 貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。

  
李淵は、617年に隋を滅ぼし、618年に唐を建国した。出雲王朝は、隋から新しい王朝に変わり、世情も落着いたと見たのだろうか、第二代皇帝李世民に替わった貞観五年(631)に使者を送っている。それに対し、李世民は、そんな遠いところから来ることもないという使者を、この列島に送ってくる。だが、唐から表仁という使者が来て、王子、つまり太子か家臣と礼を争って、その使者は朝命を述べることなく帰国している。
  「礼を争ったとは、どういうことなんでしょう」
  「使者は、唐王朝を代表して朝命を伝えに来ているから、出雲王朝にとってみたら、横柄に思ったのかもしれない。それ以上に、『朝命』という出雲王朝を属国扱いしているところに最も反発したと考えられるね。それが、隋との間で出雲王朝が一番納得のいかなかったところだよ」
  「それが、唐王朝になっても変わらなかったということでしょうか」
  「隋も唐も、王朝が替わったといっても、同じ鮮卑による貴族政治だから、所詮、担い手が替わったにすぎない。中心を為している勢力は同じだよ。だから、この列島に対する認識も対応にも変わるところはない」
  「では、唐王朝とも、大変な関係になってしまいましたね」
  「今度は、出雲王朝の方が『属国扱いするな』と激怒したということなのかもしれない。それを、さらに出雲王朝はエスカレートさせている。その次を見てごらん」
  二人は、画面に見入った。

 至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

  貞観22年(648)、出雲王朝は新羅と共に使者を送っている。新羅を伴っているということは、相当重視した使者だったと考えられる。そして、中国の史書に、始めて日本国が登場する。
  まず最初に、『日本国は倭国の別種』だと述べている。つまり、冒頭に、『倭国は古の倭奴国なり』とあることから、日本国は、在来の勢力とは民族を異にしているとある。それは、『テュルク』系の『匈奴』だということを意味しているのかもしれない。そして、その国は、『日』の辺りにあるから『日本』という国名にしたとある。つまり、出雲の地にあった国家的象徴としての『天』と実質的支配者の『日』とする統治機構の、『日』だということだ。今で言えば皇居と官公庁ひしめく永田町という関係とも言える。その永田町といった『日』の地に中心があったから、『日』の大本で『日本』という国名にしたとある。
  「日本という国名の由来ですね」
  「そういうことだよ。その『日』の地は、東出雲、出雲国庁跡や熊野大社のあるあたりだよ。熊野大社には、『日本日之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という別名も残されている。その熊野大社には、スサノオ尊をはじめ、イザナギ命、イザナミ命といった出雲王朝にとっての始祖神が奉られている。出雲の勢力にとってみれば聖地とも言える」




                                   


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