恵美は、その日も、いつもと同じように仕事を終えて帰宅した。
マンションのドアを開けると部屋の灯りが点いていて、山内恒哉がソファに腰掛けていた。
「あら、来てたの」
「ああ、今日は仕事が早く終わったんだ」
「そう、嬉しい」
恵美も恒哉の横に腰掛けた。
「今日はね、シンポジウムに向けての準備で、すごく忙しかったのよ」
「それは、ご苦労さんだったね」
恒哉は、そっと恵美の肩に手を回し、恵美は恒哉にもたれかかった。
「でも、こうしていると一日の疲れも忘れられるわ」
「そろそろ結婚式の日取りを考えないとね」
「そうね。でも、その前にあなたのお父さんにご挨拶しないといけないわよ」
「君のご両親にもだよ」
「それとね。私、新婚旅行はね・・・」
すると、それまで恵美の横にいた恒哉が、席を立って帰ろうとしている。
「どうしたの? まだお話したいことがいっぱいあるのよ」
「だめなんだ。もう帰らなきゃいけないんだ」
「どうして? もう少しゆっくりしていってよ」
「ごめん。時間がないんだ」
「いやっ、帰らないで!」
恵美は、恒哉の手を取ろうとするのだが、するりとかわされてしまう。
そして、恒哉は、玄関から出て行こうとしている。
「お願い。帰らないで、お願い・・・」
恵美は、悲しくて涙が溢れた。
「どうして? どうして私を置いて帰ってしまうの・・・」
恵美が目を覚ますと、うっすらと涙が滲んでいた。
恒哉が亡くなって一年半になるが、まだ時々夢を見る。
恵美は、夢の中だけでも恒哉に再会できるのが嬉しい反面、その度に悲しくなるのが辛かった。
今日は日曜日で、祐介がどうにか休みを取れたので、図書館で待ち合わせることになった。
恵美は、祐介を特に意識してはいなかったのだが、まるで恒哉が恵美の心をまだ離したくないと言っているかのように思えた。
『心配しなくてもいいのよ』
そして、マンションを出ると、嫁が島を横目に見ながら車を走らせた。
恵美は、季節によって微妙に景色を変える朝方の宍道湖も好きだった。
図書館に着き、研究室にあるパソコンで万葉集のサイトを呼び出していると祐介がやってきた。
「いろいろ分かったそうじゃない」
「大学の頃に学んだ解釈も、出雲に都があったという視点で読み返すと、全然違った歌に見えてくるのよ。古代の詠み人の思いに一歩近づけたように思えるの」
「それは、すごいなあ。じゃあ、早速前回からの続きをお願いしようかな」
恵美は、画面にある万葉集第二首を見ながら話し始めた。
「この歌から、出雲の地に都が存在していたところへ行き着いたのよね。そして、第二首は、現在の『奉納山』で詠まれたことに間違いないわ」
「すごい発見だよ」
「それによって、また、別の歌の疑問も解けてきたの」
「どんな?」
「ほら、この歌」
それは、祐介も知っている歌だった。
春過ぎて 夏来るらし 白妙の
衣乾したり 天の香具山(1-28)
この歌は、初夏の頃、奈良の大和三山の中心に位置していたという藤原京の大極殿から、持統天皇が香具山を眺めながら詠んだとされている。
「私は、持統天皇が、何に感動してこの歌を詠もうとしたのかよく分からないところがあったの。春が過ぎて夏が来るのは当たり前だし、香具山に白い衣装が乾してあるのが見えて、それにどれだけの意味があると思う?」
「初夏のうららかな、気持ち良い気候を詠ったのかもしれないよ」
「持統天皇については、まだ他にも疑問があるのよ。日本書紀にはね、持統天皇が、在位中44回行幸し、そのうち31回は吉野に出かけているの。その期間も、数日だったり、ひと月以上だったり」
「そうなんだ」
「特に理由はないようだから、ほとんど行楽といったところのようね」
「旅行なのかな」
「でもね、今なら大和三山のあたりから、吉野まで車で簡単に行けるけど、当時は大変だったと思うわ。特に女性の持統天皇だと尚更よ。およそ20kmほどの山道を牛車か何かで行くとなると、一日がかりよ」
「行楽ならそれも楽しかったのかもしれないよ」
吉野の地は、万葉集においても数多く詠われており、それらの歌の中には、吉野川や滝が登場する。しかし、現在、奈良にある吉野の地に吉野川はあるが、万葉集に詠われているような滝は存在しない。そのため、吉野川流域にある宮滝の辺りが少々急流だということで、そこを滝に見立てて詠んだと解釈されている。
「その吉野には、滝があったと詠われているの。ところが、奈良吉野には滝などなくて、宮滝と呼ばれている辺りの川を滝に見立てて詠んだとされているのよ。川を滝に見立てて詠むなんてことあるかしら」
「川を滝に見立てて?」
「そう」
「また『見立てて』だね」
「ところが、滝の上には『馬酔木(あしび)の花』が咲いていると詠われているのよ。実際は、宮滝の辺りの川の上には何も無く、ただの空よ」
「また、ここでも同じように、そんな風景を想像しながら詠んだということなのかな。でも、探せば、どこかに滝くらいあるのかもしれないよ」
「たとえ、あったとしてもだめなのよ」
「どうして?」
恵美は、また別の歌を呼び出した。
「その滝はね、海から島伝いに見えるという歌もあるのよ。いくら奈良吉野に滝を見出しても、海からは見えないわ」
「確かに」
「つまり、万葉集に詠われている吉野は、奈良には存在し得ないのよ。だから、先に検証したように天の香具山が奉納山だとすると、持統天皇は出雲にあったその奉納山を見ていたということになるわ」
「それって・・・。何か、ゾクゾクしてきたよ」
「佐田君、宍道湖の魚の『すずき』が持統天皇に献上されたという記録が残されているというのは知ってる?」
「ああ、聞いたことがあるよ」
「『すずき』は、刺身にすると鯛よりも美味しいと言われるほどの高級魚よ。でもね、当時だと、奈良まで二週間はかかるかもしれないわ」
「その間に腐ってしまうよ」
「だからね、干物にして届けたと言われているの。でもそんな干物にした『すずき』を持統天皇が食べて美味しいと思うかしら」
「向こうでも魚は手に入るだろうから、ここから干物にして献上するほどのものかどうかだよなあ」
「そう考えると、宍道湖の『すずき』の料理で『奉書焼き』があるでしょう」
「『宍道湖七珍』の一つだよね」
「『すずき』の一番美味しい料理として献上されたのが、その『奉書焼き』じゃないかと思うの。持統天皇が出雲の地にいたからこそ、『すずき』が献上されたのよ。つまり、持統天皇は、今の奉納山を見てさっきの歌を詠んだということになるの」
「でも、出雲から奈良吉野になど、数日で行って帰って来るなんてできないから、吉野も出雲にあったことにならざるを得ないよ。そして、吉野川も滝も。はたして、そんなことを証明できるだろうか」
「だから、私、学芸員の人に聞いてみたのよ。出雲に吉野川や滝がないかどうか」
「で、どうだったの」
「するとね。出雲大社の横に今も吉野川が流れているのよ」
「出雲大社の横に吉野川が!」
「出雲大社が描かれている古絵図にも吉野川とあるの。古来から、今に至るまで吉野川は出雲大社の横に流れていたのよ」
「本当に! 知らなかったなあ」
祐介は、仰天するばかりだった。
「驚いたでしょう。私もそれまでは知らなかったの」
「じゃあ、滝は?」
「滝もあるわ」
「ええっ、何処に?」
「その吉野川の横、つまり出雲大社のすぐ横よ」
「滝もあったんだ」
「私もまだ見たこと無いけど。その学芸員の方はそう言っていたわ」
「じゃあ、出雲大社のあたりが、万葉集に歌われた吉野ってこと?」
「そうなってくるわ。だから、出雲にいた持統天皇が、そこへ行ったとしても何ら不思議ではないのよね」
「それって、本当にすごいことだよ。見に行こう!」
「何を?」
「吉野川や滝だよ。でも、その滝は、見られるようになっているのかなあ」
「普通の庭になっていると言っていたわ」
「行こう。行って、この目で確かめようよ」
「いいけど。今から?」
「何か用事でもある?」
「特にないけど」
「じゃあ、行こう。事件現場も、もう一度チェックしておきたいしね」
二人は、すぐに出雲へ向かった。
恵美も、その滝が早く見たかった。
・・・本当に吉野の滝なのかしら?
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