神社は歴史を今に伝える博物館 Ⅰ




熊野大社 出雲大社


 古代から各地で守り続けられてきている神社には、数多くの歴史が今にまで伝えられていて、まるで博物館のようでもあります。
 現在、神社が10万社ほどあると言われている内、約8割は出雲系の神が奉られています。
 その出雲の神社と言えば、出雲大社が一番有名でしょう。
 全国の神々が集まると言われている出雲です。その出雲で、案外知られていないのが、出雲国一宮の熊野大社です。スサノオ尊が奉られているとも言われる熊野山(今の天狗山)のふもとにあって、神々の聖地とも言えます。

 亀太夫神事
 熊野大社と出雲大社との関わりを伝える神事が、「亀太夫神事」です。
 出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する燧臼と燧杵を受け取るために熊野大社を訪れます。この授け渡す儀式が「亀太夫神事」と呼ばれ、その時に出雲大社の宮司が納める餅の出来ばえについて口やかましく苦情を言い立てるという変わった神事です。その後に、出雲大社の宮司によって「百番の舞」が舞われ神事が終わりとなります。
 この亀太夫神事は、古来の熊野大社と出雲大社の関係を伝える貴重なものと考えられます。出雲大社の宮司・出雲国造は、その燧臼と燧杵による火を使って食事をします。その火の元となる燧臼と燧杵を、熊野大社から授かるのです。
 『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という熊野大社の別名が残されているのも、こういったことと関連があるのかもしれません。出雲国造の始祖と言われる天穂日命が、スサノオ尊から燧臼と燧杵を受け継いだと言われ、それを伝えているとも考えられています。
 つまり、出雲大社の宮司であっても、熊野大社においては、格の低い亀太夫から苦情を言われるということは、それだけ、熊野大社の方が格が上だと言っているようなものです。
 それは、背後に出雲の始祖神であるスサノオ尊がいるということを意味しているのかもしれません。
 スサノオ尊や熊野大社が最強の神であり、最強の神社であるということなのでしょうか。
 そして、紀州にある熊野3社は、スサノオ尊の息子であるニギハヤヒが、父スサノオや祖先を守護神として奉ったものだとも言われています。

 神在祭
 一方、出雲大社にも貴重な神事が残されています。
 全国では神無月と言われる10月ですが、出雲では神有月と言われています。出雲大社の神紋である『有』の文字は、十と月で構成されていて、それに象徴されているように、出雲では、「十月」が大きな意味を持っています。
 その旧暦の10月10日の夜、出雲大社の西1kmほどの所にある稲佐浜では、全国の神々を迎える『神迎祭』が行なわれます。そして、その翌日11日から17日までの7日間にわたって『神在祭』が行われるのですが、「これがお祭り?」といった疑問をもってしまいます。
 まずは、その『神迎祭』ですが、何故夜の7時から始められるのでしょう。
 夕方暗くなってから、砂浜で神官たちが八百万の神々を迎える神事をするのですが、どうして神々を迎える重要な神事が昼に行われないのでしょう。
 さらには、この『神在祭』に全国から八百万の神々が集まって来られるという事は、かなりの歓迎の祭典のようなものがあるだろうと考えてしまいますが、この7日間は、その周辺の人々を含めて皆謹慎して、宮掃除はしない、土木工事はしない、歌舞音曲を行わないなど、きわめて厳粛に祭りが行われるそうです。
 え?
 これがお祭り?
 そう思ってしまいます。
 天照が岩戸に隠れた時、八百万の神々はその前で賑やかな祭典を行い、その声につられて天照が顔を覗かせ、その岩戸から引き出されたとなっています。そうなると、年に1回の再会ですから、同様に賑やかにお祝いをするのかと思いきや、殆ど葬儀か法事といった状態にしか見えない「お祭り」です。ですから、この『神在祭』のことが、『神在りの斎(いみ)』とか『御忌(いみ)祭』とも呼ばれています。
 では、この八百万の神々が集まる場所は、どこなのでしょう。出雲大社に年1回集まるのですから、当然その本殿だろうと考えてしまいます。
 ところが、そうではないのです。
 神迎え祭が行われる稲佐浜の近くに仮宮(上宮)という社があるのですが、そこが神々の集合場所となっています。それも、そんなに大きな建物ではありません。その場所へ行きますと、「何故ここに?」と思ってしまいます。旧暦の10月10日の夜に神々を迎え、1週間ほとんど周辺の人々も含めて喪に服するような『お祭り』が行われるのです。そして、その場所は、出雲大社ではなく稲佐浜にある小さな社で行われるのです。
 これらは、いったい何を意味しているのでしょうか。また、何のために全国から出雲の地に八百万の神々が集まるのでしょう。そして、そのお祭りとは、1年ぶりの嬉しい再会の集まりとは思えないような、葬儀か法事です。そして、稲佐浜で神々が迎えられるのかということになるわけですが、稲佐浜と云えば、大国主命が天照の手下に剣を突き立てられて国譲りを迫られたという記紀のお話が思い出されます。その記紀のお話は、脅されているかのようにもとれますが、実際は、そんな脅しなどでは済んでいなかったということではないでしょうか。
 これらの一連の神事を検証しますと、出雲の大国主命が、実は旧暦の10月10日の夜、稲佐浜で天照の手下によって家臣もろとも殺戮されたということが見えてきます。『神迎祭』や『神在祭』は、その葬儀を今に伝え、亡き大国主命の魂を鎮め、そして、大国主命を偲んで行われているように考えられます。
 また、出雲大社の本殿は、南向きに建てられているのですが、神座は何故か西を向いています。あるいは、その祭神である大国主命の亡くなった稲佐浜に向けられているのかもしれません。
 また、出雲国造が深夜、出雲大社から出て他の神社で身を隠すような『身逃神事』といった神事も残されており、出雲大社には謎が満載です。
 


八重垣神社

 出雲の八重垣神社には、スサノオ尊の歌が残されています。

 『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣造る その八重垣を』

 スサノオ尊が、やまたのおろちを退治した後、稲田姫と居を構えたというその場所で、この歌が詠われたことになっています。
 さらに、この八重垣神社にはスサノオの家族といったような壁画が残されているのです。鎌倉時代の作だとも言われています。その絵には、もちろんスサノオ尊と稲田姫が描かれていますが、まだ他にも描かれているのです。
 まずは、稲田姫の両親であるところの足名槌・手名槌です。
 そして、さらに、そこには天照と市杵嶋姫が描かれているとなっています。
 その絵の中の稲田姫は、どこか怒っているように見えます。そして、スサノオ尊は、『どうして怒っているんだよ』といった表情に見えます。
 そして、その横には、天照大神と市杵嶋姫が寄り添うように描かれています。
 稲田姫は、スサノオ尊が出雲地方を支配下にした象徴でもあります。また、スサノオ尊が、やまたのおろちを退治するという逸話は、出雲やこの列島全域を制圧していた大蛇のように恐ろしい勢力を駆逐したことを意味しています。
 そして、スサノオ尊は、九州をも支配下にします。スサノオ尊は、そこでもあの卑弥呼を妻にして、娘の市杵嶋姫が生まれたと言われています。
 ということは、八重垣神社の壁画では天照が描かれているとされていますが、実は卑弥呼であるということになります。母と娘が寄り添うように描かれているのです。
 ところが、稲田姫からすれば、スサノオ尊の浮気としか思えません。だから、稲田姫は不機嫌な顔に描かれているのかもしれません。
 その絵からは、そんなことが伺われます。
 そうなると、八重垣神社には、この世に1枚しかない卑弥呼の絵が残されているということになります。
 決してその人たちと面識のある人が描いたのではないでしょうが、今よりは、はるかに近い世代の方が描いているわけですから貴重な絵に変わりはありません。
 古代史探索と言う意味においても極めて重要な絵だと言えるでしょう。


日御碕神社
 
 出雲大社から北西約5kmほど海岸沿いを行ったところに日御碕神社があります。
 その近くには、日御碕灯台もあり、灯台周辺は、遊歩道や展望台もあり日本海の雄大な眺めと、岸壁に打ち寄せる激しい波など素晴らしい景色を十分に楽しむことができます。
 その海岸線の入り江の奥深くに日御碕神社があります。その鮮やかな朱色の建物が見えた時には、竜宮城かと思わせるほどです。この日御碕神社も、非常に興味深いことが多い神社です。
 まず、日御碕とは、日(ひな)の御碕であり、出雲では、日(ひな)は、重要なキーワードでもあります。。
 そして、その神社にはスサノオ尊と天照とそれぞれの子ども達が奉られていることになっています。
 ところが、八重垣神社の壁画と同様に、疑問に思えるところがあります。
 日御碕神社の階段を登り、権現造りの神門をくぐるとその正面には「日沈宮」があり、そこには、天照が奉られているとされています。そして、その右手の階段を上がったさらに高い場所に「神の宮」があり、そこにはスサノオ尊が奉られているのです。
 つまり、スサノオ尊を奉る神の宮が天照を奉る日沈宮を見おろすような配置になっています。
 この日沈宮は、村上天皇の頃に向かいの経島から移設されたともあります。
 村上天皇の時代といえば平安朝で藤原氏の強力な支配のもとに置かれている時代です。
 その当時の最強の神であり、スサノオ尊の姉であるとされた天照を奉る宮が、暴れん坊の弟にされたスサノオ尊に見おろされるように建てられたとは、どうも考えにくいのです。
 そうなってきますと、先の八重垣神社にあった壁画と同じことではないかと思えてきます。すなわち、そこには、スサノオ尊と卑弥呼が奉られていたのではないでしょうか。そう考えると、その奉られ方がとても自然に思えてきます。
 八重垣神社の壁画には、母である卑弥呼に寄り添うように市杵嶋姫も描かれていました。では、日御碕神社にも市杵嶋姫は奉られてないのでしょうか。すると、神の宮にも奉られていることにはなっていましたが、実は、その日御碕神社の眼前には、経(ふみ)島があるのですが、その島は御厳島(みいつくしま)とも呼ばれているのです。厳島とは市杵嶋姫を意味しますから、日御碕神社と御厳島にはスサノオ尊と卑弥呼、そしてその娘の市杵嶋姫の3人が仲良く奉られていたとも考えられるのです。
 その経島、つまり御厳島は、8月7日にある例祭の際に、宮司だけがその島に渡ることができるそうです。
 その時にだけ宮司が一人で渡ることが許されていて、それ以外の日は、誰一人として立ち入りができないのです。禁足地というわけです。つまり、島自体が御神体ということなのかもしれません。
 そして、村上天皇の頃までは、その経島に天照が奉られていたとされていますが、元々その島は市杵嶋姫が奉られていたのではないでしょうか。
 日御碕神社には、スサノオ尊が、鎮まるところを求めて柏の葉で占うと、この日御碕神社の側にある隠ケ丘に止まったのでスサノオ尊を奉る神の宮がここに建てられたという逸話も残されています。だからなのでしょうか、日御碕神社の神紋は、『三つ柏』です。つまり、柏の葉が3枚というのがこの日御碕神社の象徴たる神紋とされているのです。それは、スサノオ尊、卑弥呼、市杵嶋姫の3人を奉っていることを意味しているのではないかとも考えられるのです。
 家紋と同じように神紋は、その神社の歴史や系統など重要な意味が込められています。
 では、次に、その神紋についても調べてみましょう。



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邪馬台国発見

ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」

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