神社は歴史を今に伝える博物館 Ⅱ




神紋

 殆どの神社には、神紋が掲げられていて、屋根や幕、提灯、発行物などでその紋様を見ることができます。あるいは、密かに目立たないような所に残されている場合もあります。同じ神社にいくつかの神紋が使われている所もあるようです。
 神紋は、家紋と同じように、その神社の歴史や系統などがそこには込められています。
 では、いくつかの神社の神紋について検証してみましょう。

熊野大社

 先にも触れました東出雲にある熊野大社の神紋は、亀甲のなかに『大』の文字が描かれています。
 「大」が、熊野大社の象徴となっていて、出雲国の神社には、「大」を神紋としているところが他にもいくつかあります。つまり、出雲では、「大」が大きな意味を持っています。
 中国の史書を検証した時にも出てきましたが、出雲王朝の国名は『大国』でした。その痕跡が、熊野大社の神紋に残されていました。大国の主で大国主命。
 また、日御碕灯台の近くの展望台に掲示されている周辺を描いた地図では、日本海が「大海」とされています。大国の周辺の海だから「大海」と名付けられたのでしょう。また、中国地方最高峰の「大山」という名称も大国に由来しているのかもしれません。
 出雲系の神社の中で最強とも言える熊野大社の神紋の『大』には、出雲王朝である『大国』の痕跡が残されていました。
 
 
 出雲大社

 出雲大社の神紋も前述しましたが、亀甲に『有』です。10月、つまり神在り祭がとても重要だということでもあります。出雲大社は、大国主命を祭祀するところに、その存在意義があるのかもしれません。
 ところが、出雲大社で目に付く神紋といえば亀甲に剣花菱です。剣花菱とは、花びらが4枚とその間に剣がエックス状に交差しているものです。この神紋は、出雲大社ではなく出雲国造家の紋なのです。そして、その花は別名「唐花」とも呼ばれており、唐からきた紋様で唐花菱とも言われています。
 ここには、我が国の根幹に関わる重大な歴史が秘められていました。
 

 美保神社

 美保神社は、島根半島の東端に位置しています。
 島根半島は、古代にあっては島でしたが、簸伊川から流れ出る土砂で繋がってしまいました。
 ですから、細長くてトンボのような形をした島なので、万葉集には今の島根半島が『蜻蛉島(あきづしま)』として登場しています。
 その美保神社には事代主命が奉られていて、全国にあるえびす神社の総本社でもあります。その象徴の神でもある「えびす様」とは、7福神の中の釣り竿と鯛をかかえている神です。美保神社のすぐ側には港が有り、少し沖には事代主命が釣りをしたという言い伝えの残る岩場もあります。
 そして、ここの社紋は亀甲に三、神紋は亀甲に三つ巴と、亀甲に渦雲です。
 

 熊野本宮大社 熊野速玉大社 熊野那智大社
 
 紀伊半島の深い山の中に、どうして熊野本宮大社があるのか。また、熊野那智大社、熊野速玉大社と併せて熊野3社といわれますが、出雲との関係は? などなど、疑問が数々あるように思えますが、それは、出雲の勢力が製鉄を重要な産業とする北方騎馬民族であるところからその関連を解き明かすことができました。
 つまり、たたら製鉄です。
 その技法は非常に高度なもので、近代の高炉による製鉄方法ではどうしても不純物が残り、酸化しやすいという弱点があるのですが、たたら製鉄によって造られる鉄は不純物が少なくさびにくいといわれます。だから、日本刀など品質の高い鉄製品が作られてきました。
 そのたたら製鉄では、木材を大量に焼却することになります。たたらの高炉では、木を2~3日燃やし続けます。そのため、1トンの鉄を作るのに約60トンの木材を焼却します。その鉄を加工するために、さらに木が燃やされます。また、大量の炭も燃やされるので炭つくりもあちこちの山でさかんに行われていたようです。
 ですから、たたら製鉄では、木材が極めて重要になります。
 彼らは、騎馬民族であるということで、馬の蹄鉄として必ず鉄が必要となります。それだけでなく武器、農耕具、などなど数多くの需要に対して製鉄をすすめていくと、莫大な木材が欠かせません。
 寒冷地や乾燥している地域では、木は中々大きくなりません。そのため、スサノオ一族は、温暖多雨の紀伊半島を木の供給地にしました。つまり、紀州紀の国とは、木州木の国ということでした。
 そして、製鉄のために山の木が切り倒されると、その後に植林をしていったので、よく手入れの行き届いた森林が形成されていきました。
 このように、木がたたら製鉄にとって生命線であるということで、スサノオ尊の息子であるニギハヤヒが紀伊半島に派遣され、そのニギハヤヒが、父スサノオ尊や祖先を守護神として奉ったのが熊野3社だと言われているのです。
 ニギハヤヒ自身は、三輪山に奉られています。
 さて、その3社の神紋ですが、
 熊野本宮大社は、3つ巴と八咫烏。
 熊野速玉大社は、3つ巴と五七の桐。
 熊野那智大社は、3つ巴。
 このように、3つ巴が、基本になっています。


 大神神社

 大和国一宮である大神(おおみわ)神社は、三輪山のふもとにあって本殿がなく、三輪山そのものが御神体とされています。ですから、三輪山は、禁足地となっています。
 山中には、巨石群や磐座が散在していて、スサノオ尊が奉られると言われる熊野山にも山頂に巨石や磐座があります。
 この大神神社の神紋は、3つ巴と五七の桐、3杉となっています。
 3つ巴と五七の桐というのが、出雲系の神社では多く見られます。


鹿島神宮 香取神宮

 東国にあるこの2つの神社も非常に興味深いところがあります。
 まず、この2社の位置ですが、利根川の河口に位置し、当時は、利根川が香取の海と言われる大きな河口湖に流れ込みそして鹿島灘に流れ出していたと言われています。
 鹿島神宮は、茨城県鹿島市、常陸の国一宮になります。
 香取神宮は、千葉県香取市、下総の国一宮になります。
 つまり、この2つの神社は、その河口付近の両岸に位置していたことになります。利根川の上流でもたたら製鉄が盛んに行われていて、鉄や木材などが往来する重要拠点でした。
 鹿島は古くは香島と言われていたようで、鹿が神社で飼われるようになってから鹿島となったそうです。
 九州にある金印の発見された志賀の島にも昔は多くの鹿がいたそうで、その鹿の角1万本が納められている鹿角堂が志賀海神社に残されています。あるいは、志賀の島も、元は鹿の島だったのかもしれません。
 奈良公園にも鹿がたくさんいます。島根半島にも鹿島という地名がありますし、古絵図には、出雲大社のあたりにたくさんの鹿が描かれています。鹿が、何か共通しているようにも思えます。
 さて、この2社の神紋ですが、鹿島神宮は3つ巴で、香取神宮は五七の桐です。
 この2社は、対の関係にあったようで、香取神宮には凸型の要石があり、鹿島神宮には凹型の要石があります。
 そして、その要石は、地下で繋がっているとも言われています。
 この2社の神紋の3つ巴と五七の桐は、熊野3社や大神神社と共通しています。
 


             


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