古事記1300年にあたって

4、唐王朝による列島征服

 西暦190年頃、スサノオ尊と卑弥呼によって確立された統一国家は、この列島において営々と繁栄を築いていくのですが、7世紀半ばになると大きな転機を迎えます。
 朝鮮半島は激しい戦乱状態に陥り、この列島もその戦火に巻き込まれていきました。
 その当時、唐王朝第3代皇帝李治は病弱で、その皇后「武則天」が実質的支配者として君臨していました。西暦660年、新羅の支援要請を受けて、武則天は、東アジア制圧の詔を発します。そして、663年百済が征服され、先にも述べたように、白村江の戦いの直後、わが国も唐に占領・征服されます。
 唐は、676年、朝鮮半島から軍を引きますが、わが国を、その後も支配し続けます。
 当時、仏像などに施す塗金では、金を水銀に溶かして塗り、その後水銀を蒸発させるという手法でした。また朱の原料など、水銀は今の石油にも相当するほどの重要な鉱産物でした。その水銀が、丹波や伊勢などから豊富に産出されており、その支配が列島征服の大きな動機でもありました。
 彼らは、唐(藤)を源(原)とするという意味で藤原氏を構成し、後々に至るまでわが国を支配下に置きます。
 さらに、彼らは、唐王朝が占領征服したことも、その後も支配し続けていることも歴史から消し去り、自らに都合の良い歴史を創作しました。そして、わが国の庶民は、1300年にわたって、彼らの創作した歴史がこの列島の歴史だと思わされてきています。
 しかし、よくよく見れば、そういった占領・征服の痕跡は数多く残されています。
 武則天は、660年、皇帝を天皇に皇后を天后に改称します。しかし、武則天の失脚後は、元に戻されています。ですから、中国皇帝制度にあって天皇を名乗ったのは、李治ただ一人です。その武則天の時代にわが国が制圧されたので、今にまで天皇がわが国に残されています。
 その武則天の指令により、わが国が制圧されたことも古事記に残されました。つまり、古事記において出雲の征服を指令している「天照」とは、武則天を意味しています。武則「天」の幼名・本名は、武「照」で、まさしく「天照」です。その天照は、わが国における最強の神として伊勢神宮に奉られています。それを象徴するかのように、その神紋は花菱で、別名「唐花」とも呼ばれています。
 武則天は、自ら即位し「聖神皇帝」を名乗ります。聖なる「神」であるところの「武」則天で、「神武」です。つまり、天皇の祖先が天照であり神武天皇だとされているのは、天皇のルーツが武則天にあることを伝え残していました。
 さらに、出雲は唐により武力制圧されているので、出雲国造家の神紋は、唐花である花菱に剣が組み込まれた「剣花菱」です。
 唐王朝を築いた李淵は、隋王朝を滅ぼした時に禅譲という手法を用いています。つまり、征服・簒奪したとしても、譲られたとする支配者としての都合の良い形式です。
 古事記にある『国譲り』とは、まさしくその禅譲という手法であり、実態は、唐王朝による出雲王朝の占領・征服です。
 

                       


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