万葉集に秘められた真実!
万葉集に詠われた吉野を探る  1

持統天皇『吉野行幸』に31回

持統天皇は何故吉野へ?

 日本書紀によりますと、持統天皇は、在位中に44回行幸し、その内31回は吉野へ出かけています。しかし、そこにはいくつかの疑問を抱かざるを得ませんでした。
 およそ8年間にどうしてそこまで行く必要があったのでしょうか。平均して年4回といったペースです。特に季節が偏っているわけでもありません。
 通説では、休養かあるいは行楽といったことだと言われています。奈良吉野は山の中ですし、何らかの行政機関があったようには思えません。今、その吉野に行こうとすれば、車もありますし道も整備されていますが、その当時、女性の天皇がそうたびたび気軽に行けるような地だったのでしょうか。
 吉野は、飛鳥の地から、およそ直線距離で15キロメートルといった場所に位置しています。それは飛鳥の南にある山地を超えて直線で行った場合です。行き易いように現在通っている近鉄沿線といった道を想定しますと、20キロメートルにはなります。それも、峠や山道を、当時ですと馬とか馬車、あるいは牛車といった乗り物で行くことになります。そうなりますと、行くだけでも1日かかることになるでしょう。
 ところが、その行幸が10日以上になることもあれば、3〜4日といった場合もあります。行き返りで2日となりますと、滞在1日とか2日といったこともあったことになります。吉野には吉野離宮があったとも言われていますが、そこまでして行くほどの理由が見当たりません。景観が良かったのだろうかとも思いましたが、行きましても普通の山の中で、特別変わった景観でもありません。飛鳥のほうがむしろ良いかもしれません。
 そういった疑問を持っていたのですが、第2首や持統天皇の詠んだ第28首の検討から、持統天皇はこの列島の都であった出雲の地にいて、国家的象徴として超高層の神殿で君臨していたという認識に至りました。
 そうなりますと、ますます、持統天皇は奈良吉野などに3〜4日で往復することなどあり得ません。行くだけでも1ヶ月はかかってしまいそうです。
 ということは、この吉野行幸とはいったいどういうことなのでしょう。
 万葉集には、吉野の地名が60首あまりで詠われています。直接その地名が読み込まれていない歌も含めますと、さらに増えることでしょう。万葉集には、そういった季節や景観を詠った歌が数多くありますから、その地で詠われた歌は、あるいは数百首といった規模になるかもしれません。
 ということは、持統天皇のみならず、万葉集に歌を残した詠み人の多くは、その吉野の地に行っていたということにもなります。
 では、万葉集で、そこまで詠まれていた吉野とはどういった所だったのでしょう。
 早速、それらの歌を検証してみましょう。
           

                       


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