万葉集に秘められた真実!
万葉集に詠われた吉野を探る  6

持統天皇『吉野行幸』に31回

吉野の滝発見! 能野川?

  古絵図を見ますと、出雲大社の東側に吉野川が流れ、西側に素鵞(そが)川が流れています。その素鵞川は、出雲大社の東南のあたりで吉野川と合流しています。まさしく、出雲大社の地は、その二つの河の内にある『河内の宮』と言えます。おそらく、その基本的な流れ方は、当時も今も同じだろうと思われます。
 学芸員の方の話では、吉野川の傍に北島家があり、そこに滝があるとのことでした。
 北島家とは、出雲国造家で、もとはひとつでしたが、室町時代、南北朝の頃、出雲国造家も千家と北島家に分かれたとのことです。そして、出雲大社を挟んで東側に北島家、西側に千家が位置することになりました。
 もうひとつの滝は、素鵞川にあるとのことでした。
 出雲大社に着き、まず吉野川を確認し、合流地点から右側吉野川に沿って北へ向かいました。万葉集の時代にあっては、清流と詠われた吉野川も、後の時代に石垣で整備されたり、今となってはコンクリーで固められたりと、古代の面影は全くありませんでした。
 北島家の場所が良く分からなかったので、その近くに居た人に聞くとすぐに分かりました。そこへ入ると、山沿いに庭園があり、その奥から滝が流れ落ちているのが見えました。
 近づいて見ると、滝つぼが池になっていて、かなり古くからあったような風情のある滝です。詠われていた『浦』の名残とも言えます。平屋の屋根くらいの高さから流れ落ちていて、以前は嶋でしたから海からでも見えそうです。滝の上には、馬酔木(あしび)かどうかは分かりませんが、植物が生えていました。山肌から流れ落ちていますから、その条件は整っています。その歴史を感じさせる風情のある滝は、ほとんど吉野の滝に間違いないだろうと思いました。
 とうとう吉野の滝に到達することができました。
 現在北島家は宗教法人となっていますから、その近くに社務所があり、そこにいた方に滝について聞いてみました。その滝の水は、吉野川に流れているとのことでした。かなり昔からある滝で、途中枯れてきたので手入れをしたりしていたそうです。つまり、北島家が、ずっとこの滝を守ってきているのでしょう。
 北島家には、歌を詠むといったことや、和歌について何か伝えられていることがあるようです。万葉集との関連も伺えますが、それについてはまだ何も分かりません。
 実際のたたずまいや、それらの話からも、ほぼ確定だという感触を得ました。
 しかし、一応確認のために素鵞川の滝も見ましたが、吉野の滝の条件からは外れていたので、やはり、北島家の滝が吉野の滝に間違いないと確信いたしました。
 さらに驚いたことに、その社務所でいただいたパンフレットを見ながら話をしていたのですが、その時、吉野川の名称が『能野川』と書かれていました。吉野川とはまた違った名前が残されているのでしょうか。そして、何と読むのだろうと疑問に思いました。
 熊とは違いますが、当て字かもしれませんし、出雲の勢力の象徴は、熊野ですから、『これはくまの川と読むのでしょうか』と聞きますと、何と『いいえ、よしの川です』との返事でした。『能野川』と書いて『よしの川』という読み方が北島家には伝わっているようです。
 本当に長い間の疑問だった、吉野にまつわる謎が解消されて、充実した気分で帰宅しました。そして、『あるいは』とは思い、万葉集の歌を調べてみました。すると、『吉野川』と詠まれている歌の中に、1首だけ原文に『能野川』の文字がありました。
 万葉の里、和(倭)歌を引き継いできていたのは、あるいは本当は北島家だったのかもしれません。
 その歌をご紹介いたします。

能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二(7−1134)

 吉野川 巌(いは)と栢(かしは)と 常磐(ときは)なす 我れは通はむ 
 万代(よろづよ)までに

 
 万葉集とは、万葉、つまり万世、よろづよ、いついつまでも続く、あるいは残されていくものだという意味での名称だったのではないかと推察されます。
    

                       


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