万葉集に秘められた真実!
柿本人麻呂、遂に墜つ  2

人麻呂 出雲で人生を終える

鴛鴦(をし)の住む 君がこの山斎(しま) 今日見れば 
馬酔木
(あしび)の花も 咲きにけるかも(20−4511)

池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬酔木の花を 
袖に扱入
(こき)れな(20−4512)

礒影の 見ゆる池水 照るまでに 咲ける馬酔木の
散らまく惜しも
(20−4513)

 この3首は、『山斎』(しま)で詠まれたと題詞に記されています。『山斎』とは、漢詩文に出てきますが、山間のひっそりとした住処(すみか)を意味します。万葉集では、池や小山のある庭園のことのようです。つまり、オシドリの住むひっそりとした池や小山のある庭園で、そこにはあしびの花も咲いていたといった場所で詠われています。
 そのような庭園が、すでに登場していました。
 『吉野』を探った時に、その滝のある池を詠った歌の中にあしびがありました。また、近くには磯もありました。その庭園は、今もひっそりと静かな佇まいで、この3首が詠われた情景とほとんど同じ雰囲気が漂っています。
 元の都であった『やまと』の地に帰り来て、吉野川の傍に残る庭園で人麻呂によって詠まれた歌だと考えられます。都として栄えていた頃は、その池には造園の滝がありましたが、荒れ果てしまったその庭には、維持管理する者もいないので、もう滝は消えていたようです。ですから、晩年の人麻呂の歌には、滝は登場しません。近年は、北島家により滝が整備され、維持管理されています。
 都『やまと』の華やかりし頃は、綺麗な吉野の地には、国家的象徴の『天』が高層の神殿に君臨し、その周辺は、庭園のように整備され、造園の吉野の滝もありました。さしずめ、迎賓閣といった様相だったのかもしれません。それゆえ、『吉野』という名称だったのでしょう。
 しかし、その『吉野』は、唐王朝に滅ぼされ、荒れ野と化してしまいました。
 その地名、『やまと』や『吉野』、『淡海』なども簒奪されて、近畿地方の地名とされてしまいました。
 ですから、人麻呂が再び戻った時には、その吉野の滝も消えていたと見られます。

 
青海原 風波靡き 行くさ来さ つつむことなく
船は速けむ
(20−4514)

秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 
相か別れむ
(20−4515)

 この2首は、大伴家持が、宴で餞別として詠った歌とされています。つまり、お別れの歌ですが、この歌も人麻呂の歌でしょう。人麻呂の旧知の方が、お別れにやって来たのかもしれません。
 かなり高齢だった人麻呂にとっては、もう会えることもないだろうという思いで詠ったのかもしれません。
 そして、第4516首の最終歌で万葉集は終わっています。
 このように見てきますと、柿本人麻呂は、なつかしい『あきづしま やまと』の地に帰り来て、出雲王朝の歴史や自らの人生を振り返り、その足跡を万葉集として残したと考えられます。
 また、万葉集の編纂や最後のあたりの歌は、大伴家持の作品となっています。
 しかし、歌の流れを見てきますと、それは人麻呂の視点で詠われたものだと思われます。
 では、大伴家持と万葉集との関係は、どうなるのでしょう。
          

                       


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