万葉集に秘められた真実!
古代の都 『あきづ嶋やまと』  3

奈良大和三山の香具山(2)

 大和三山方面へ行きまして、まずその近くにある甘樫の丘にやって来ました。
 甘樫の丘と言いますと、蘇我氏が邸宅を築いていたという場所です。観光整備もされていて、容易に上に登れそうなので、どんなところなのか見ることにしました。
 そこに上がりますとまず見晴らしが良いのに驚きました。川原展望台からは、畝傍山がとても綺麗に見えました。先ほどの高松塚古墳の資料館に展示されていた畝傍山の映像は、この展望台から撮影されたものでした。
 そこから狭い尾根を行きますと豊浦展望台へと続きます。川原展望台よりも少し広くて、観光客も30名ほど来られていました。海外からも何名かおられて、さしずめ古代史サミットかといったところでした。そこからは、大和三山をはじめ奈良盆地が一望にできる絶好のビューポイントです。これらの映像は、古代史探索紀行映像(奈良)編をご覧ください。
 そこで、とあるグループの男性ガイドの方が、甘樫の丘について説明しておられました。
 当時、蘇我氏は大きな力を持っていて、その甘樫の丘の上に邸宅を建て、天皇家を見下ろしていたといったものです。武器庫もあってさしずめ蘇我氏の要塞といった様相だったと言われています。その場所から東側を見下ろしながら説明を受けると、なるほどそうだったのかと思ってしまいそうです。
 しかし、よくよく考えますと、そんな権勢を誇っていた蘇我氏の邸宅となりますと相当な規模になります。その上、武器庫も備わった要塞だったということです。
 それが、甘樫の丘の上にあったと言われているのですが、そのような場所はその丘の上にはありません。狭い尾根が続く甘樫の丘にそれほどの規模を持った要塞など建てられそうもありません。もし、仮にそうだったとしたら、それだけの建築物を維持するにはそれ相当のしっかりとした基礎工事が施されていなければ倒壊してしまいます。
 ところが、その場所にはそういった痕跡は一切ありませんでした。蘇我氏の邸宅や武器庫がこの甘樫の丘の上にあったなどというのは、それこそ空想の産物としか思えませんでした。
 そして、そこから香具山へと向かったのですが、その山にはどうやって登っていけば良いのかもよく分かりませんでした。それ以前に、どうしてその山をあの大王が選んで登ったのか理解しがたいというのが率直な感想でした。本当に見晴らしの良い山に登って国見をしたいのなら、甘樫の丘を選ぶでしょう。どこからどう見ても、香具山は展望する場所に選ばれるほどの山ではありません。
 先にも述べましたが、高松塚古墳の資料館で第2首の横に展示されていた畝傍山の写真は、甘樫の丘からの映像でした。
 第2首の歌は、香具山で大王が国見をする歌です。本来であるなら、このように香具山からの見晴らしはすばらしいものがありますと、その香具山から撮影した映像が展示されてしかるべきです。
 しかし、その横に展示されていたのは甘樫の丘からの映像でした。どうして、時の大王が国見をしたという歌の横に香具山からの映像が展示されないのでしょう。
 それは、現地の方々が一番よくお分かりだということです。
 これがすべてを物語っているように思えました。もし、それほど見晴らしの良い山であるのなら、今もそれなりの整備がされて、ここがあの万葉集に詠われた大王が国見をした場所ですと、奈良観光協会もお考えになるでしょう。
 実際は、どこからどう近づいたら良いのかも分からない程度の山でしかありませんでした。私は、第2首が歌われたとされる地に来て、ますますその解釈はあり得ないと実感しました。
 ちなみに、古代にあっては海だったかどうかということも調べましたが、奈良盆地は湿地帯であまり人が住めるような場所ではなかったといったことでした。
 やはり、海は無かったようです。
 その湿地帯を海に見立てたのだと言われそうですが、そうなりますと、いったい古代史とは何なのかとかいったことにもなりそうですので、そういった話にならないように願うばかりです。
 
 

          

                       


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