中国の史書を調べていきますと、隋書に、隋の使者がこの列島の大倭王の居る都へ やって来たとありました。その使者の道程が書かれていますから、それをたどりますと この列島の都が何処にあったのかが判明することになります。 いよいよ、めざす都が特定できるかもしれません。 私は、胸の高まりを抑えることができませんでした。 その記述の中で、いくつかの国を経ると『海に達した』という表現をしているのです。 そして、そこで歓迎の式典が催され、都から騎馬隊のお迎えがやってきて、その数、 200騎とあります。 これらの記述を見た時に、『これって、出雲?!』と、私の中に閃光が光ったような 衝撃を覚えました。 私は、所は違いますが和歌山大学の卒業で、学生の頃にサークルの合宿で南紀方面 へ行く機会がありました。その折に、その合宿の施設の近くの山を登ることになりまし た。 そうは言ってもそんなに高い山ではなく、海にせり出ているような尾根といった 程度です。雑木を掻き分けながら、30分ほど登りましたでしょうか、すると尾根に出 て、そこは魚見台といったとても見晴らしの良い場所でした。 登った瞬間、いきなり海が一望に開けて見えたのです。 それは、すばらしい感動を体験できました。 場所も時代も規模も異なるので、簡単に比較はできませんが、その『海に達した』と いう記述を見て、学生の時の感動体験を思い出しました。 わずかな文字しか無い史書でその使者の体験した中に描かれるほどです。その使者 は、大陸から海を越えてやってきているのですから、決して海が珍しい訳ではありませ ん。つまり、その使者は、内陸部のかなり険しい道のりを経て海の見える場所に出たの でしょう。 九州からその使者は東へ向かって移動しています。瀬戸内海を船で移動したとします と、海に達したとは描きません。ましてや奈良大和であろうはずもありません。瀬戸内 海沿岸を移動したとしても、瀬戸内海が見え隠れしていますから、同様に海に達した とは言わないでしょう。 そうなりますと、中国山脈を越えたのではないかと思ったのです。今も、出雲街道と 言われる中国山脈越えのルートがいくつかあります。その道を経て日本海側へ出た のではないでしょうか。そうしますと、大変な山越えとなります。その労苦をねぎらっ て祝宴が設けられたのも理解できます。しばらくは、休息して都からお迎えの騎馬 隊がやって来たということでしょう。200騎もの騎馬隊で迎えるということは、騎馬 民族であるところの出雲王朝だろうと考えました。 この時、それまで思いもよらなかった『出雲が都だった』という認識に到達したので す。 そうしますと、同じく隋書には、その当時の都は、魏書の頃の都『邪馬臺国』と 一緒だという記述もあるのです。 つまり、長年議論されている『邪馬台国』は、実は出雲だったということにもつなが りました。私は、万葉集の謎を追い求めてはいましたが、決して『邪馬台国』探しを 目的とはしていませんでした。しかし、この列島の都を特定しようと中国の史書を検 証する中で、『邪馬台国』の発見にも至ることができたのです。 出雲が、この列島の都だという認識に到達しますと、今まで謎だったことが次々と 解明できていきました。 さらに、『景初3年』の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことにより、出雲が都であ りかつ『邪馬台国』であったことは動かしがたい事実として確信を強めました。 これで、この列島の都が特定できたのです。 本当に、そんなことができたなんて自分でも信じられませんでした。 そうなりますと、第2首が詠われたのは出雲なのかもしれないと、いよいよ当初から の本来の謎の解明に王手がかかりました。 |
邪馬台国発見
ブログ「邪馬台国は出雲に存在していた」
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