オーシャン・ドリーム号の悲劇 船 ・・・20年目の夏
13.
 トイレから戻った東川は、再び話し始めた。

 「およそ3世紀から7世紀にわたって出雲王朝の時代が続いたんだが、その王朝の栄華も、平穏な暮らしをおくっていたこの列島の人々も、再び、冷酷な支配の下に置かれることとなってしまったんだよ」
 「それは、7世紀ですね」
 「660年頃から、朝鮮半島の情勢は緊迫し、唐、新羅、百済、高句麗、そしてこの列島の『倭国』をめぐって大きな戦乱状態に陥った。そして、唐により百済が滅ぼされ、同様にこの列島も唐によって征服されてしまった」
 「この列島が、唐王朝の支配下に置かれたんですね」
 以前、福山もそのことについては調べていた。
 「663年秋、この列島は、劉仁軌率いる唐王朝軍によって制圧され、それ以降、この列島は、唐王朝の植民地とされてしまった。その基本的支配体制は、それ以後、変わることなく今に続いているよ。これらのことも、出雲神話に残されている」
 「どのように残されているのでしょうか」
 「まずは、古事記にある『国譲り』だよ。唐王朝の第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているんだが、武則天の幼名、すなわち本名は武照、つまり、天照大神とは、武則天のことを意味している。だから、天照大神の指令で、出雲が制圧されたとある。当時の大国主命の臣下の事代主は、先に述べた美保神社に祭られているように、スサノオ尊以来、先住の『戎』の勢力も重要なパートナーとして協力関係にあったことが伺える。そして、唐王朝は、出雲王朝の勢力を抹殺してしまった。その弔いが、今に伝わる『神在祭』だよ。『国譲り』ではなく、占領・征服でしかない」
 「そうですねえ」
 それは、福山も納得できるところであった。
 「さて、その唐王朝の民族は、鮮卑族だ。つまり、過去、この列島を支配していた東胡の末裔に当たるわけだ。だから、この列島は、再び東胡の勢力に征服されたことになるんだ。これこそが、『天の岩戸伝説』の意味するところだよ」
 「『天の岩戸伝説』ですか?」
 「そうだよ。天照は、東胡や鮮卑の支配の象徴として描かれているわけだよ。だから、この列島を支配していた天照だが、その支配が中断させられたことを天照が岩戸に隠れたと表現しているんだよ。つまり、この列島は東胡の隷属下に置かれていたんだが、『倭国大乱』の後に、出雲王朝による支配が確立した。そのことは、彼らの立場からすれば、匈奴の勢力であるスサノオ尊の乱暴・狼藉によって邪魔されたことにしかならないし、その時期は、天照の支配下になかった闇だと言っているわけだ。彼ら東胡や鮮卑族にとっては、それが闇なのかもしれないが、この列島の人々にとっては、歴史上最も歓喜にあふれた時代であって、天照の支配下にある時代こそが、闇なんだがな。そして、東胡の末裔である鮮卑が、この列島を再び支配下に置いた。それを、天照が岩戸から出てきて支配者として再び君臨したと描いたんだ。すなわち、この東胡・鮮卑の民族的再支配を描いたものが、『天の岩戸伝説』の意味するところだよ」
 「全国に天照の岩戸隠れの場所だとする所がいくつもありますが、そういった支配の概念を表現したものだったのですね」
 「古事記や出雲神話は、ほとんど比喩の手法で描かれているよ。ダイレクトに残せなかったんだろう」
 「出雲神話以外にも、そういった渡来人の痕跡は何か残されているでしょうか」
 「人が生きた一番の痕跡は、墓だよ。そして、そこには、民族的な特異性を持たそうとする。特に支配者の立場にあれば、なお更その傾向は強まる。つまり、自分たちは、周囲の人たちとは、違う民族だとその墓にも描こうとする。そういう視点から見ると、今、話してきたことが、墳丘墓に明瞭に残されているんだ」
 「どういったような」
 「出雲文化圏の墳丘墓として、その特異な形状である『4隅突出型墳丘墓』が、よく知られているだろう」
 「そうですね」
 「この墳丘墓の造られ始めた年代は、弥生中期後半と言われているが、それは、どんな時代だったかな」
 福山は、手元にある歴史年表を見た。
 「およそ、弥生中期は、紀元前2世紀以降です。この列島と大陸との関連で言えば、東胡が匈奴に滅ぼされた頃に相当します。えっ、では、その頃、この列島に東胡の一部が渡来したと言われてましたが、4隅突出型墳丘墓は、東胡の勢力の古墳ということですか」
 しかし、福山には、単純にそう判断してよいものかどうか、まだ、よくわからなかった。
 「彼らは、先住民を支配下にしているくらいだから、それまでの円墳とは異なる形状にすることで、自分たちは違う民族だということを、その墓にも残したのだろう。だから、彼らが最も強大な勢力となる弥生後期、つまり紀元1世紀頃、先に話した後漢に160人もの奴隷を献上した頃だが、その頃に最も大きな4隅突出型墳丘墓が造られている。そして、倭国大乱の時期に、東胡の勢力が駆逐されたから、紀元2世紀頃で4隅突出型墳丘墓は造られなくなる。また、銅鐸も、紀元前2世紀から紀元2世紀頃に鋳造されているから、ほぼ時期が同じだよ。つまり、4隅突出型墳丘墓も銅鐸もこの列島に渡来した東胡の勢力によって造られたと考えられる」
 「4隅突出型古墳と銅鐸は、東胡の痕跡ですか・・・」
 福山は、まだ半信半疑ではあったが、時代区分としては、東川の言う歴史認識に合致していた。
 「そして、弥生時代が終わると古墳時代に入るが、その時代は、すなわち出雲王朝の時代だよ。つまり、前方後円墳と呼ばれる墳丘墓は、出雲王朝の勢力の象徴だ。だから、唐王朝に征服された7世紀で前方後円墳は造られなくなった。それは、同時に古墳時代の終わりで、その後、この列島の人々にとっては、暗黒の唐王朝による植民地時代に入る。唐王朝の勢力にとっては、天照による輝かしい支配の復活だよ。このように、渡来民族による支配関係と古墳などの遺跡とは全く一致しているんだよ。ところが、私の言うような歴史認識は消されているから、そういった遺跡の意味も分からなくされてしまっている」
 「なぜだろうということが、古代史には多いですね」
 「大陸の歴史とこの列島の歴史を付き合わせることをしないから、そうなっているだけで、ちょっと、調べれば簡単に分かるんだがな」
 「あるいは、意図的に、分からないようにされているのかもしれませんね」
 「おそらく、そうだろう。お偉い歴史学者の方々が、一生かけて研究して分からないはずはないよ。むしろ、『記紀認識』に合わせて歴史を創り変えることに心血を注いでいるのかもしれないよ。唐王朝による占領下で押し付けられたのに、遣唐使によって、自主的に律令制度や平城京などの都造りの構想がもたらされたなどは、『国譲り』と同様でその典型だよ。そんなことのために遣唐使は行っていない。しかし、この国では、そんな歴史の捏造が堂々とまかり通っているんだから、知らないということは、本当に哀れなことだ。強盗に入られた家の人たちが、強盗に家屋敷を『献上』したなどという偽りの歴史を押し付けられ、その子孫たちは、その捏造された歴史の下で、その強盗一味に支配され続けているようなものだ。自らの民族的歴史も尊厳も奪われ、踏みにじられていることが認識できないんだよ。その上、『あなたたちは騙されている。これが本当の歴史だよ』と言っても、逆に『そんなものに騙されないぞ』と、強盗にとことん収奪され続けているんだ。あるいは、その強盗一味がさらに収奪しようとしても、『これが改革だ』などと、自らの首を絞めることに応援したりしている。ほとんど宗教的妄信といった状態にある」
 東川の話しぶりに熱がこもってきたところで、福山は、積年の疑問を問いかけてみた。
 「あのう、私も出雲出身ということで、子どもの頃から、そもそもどうして『出雲』と云うのだろうとか、『出雲』と書いてどうして『いずも』と読むのだろう、といった疑問を持っているのですが、そういったところは、どうお考えですか」
 「地名についてかな。地名について考えるには、まず、その前提が問題となる。それは、今話したように唐王朝によってこの列島がその植民地下に置かれたことが理解できなければいけないんだ。つまり、出雲王朝の支配を思わせるようなものは一掃され、文字や言葉、暦をはじめ、律令制と言われる政治的体制も含めて、あらゆるものが、唐王朝の思うがままに整備されていったわけだ。そして、その一環として、713年に『好字令』が施行されるんだが、それにより、地名は漢字2字で表記せよとなったんだよ」
 「そのようでしたね」
 「そうなると、それまで呼んでいた地名に当て字をしなければならない。それにより、全国で、その土地に住む人でなければ分からないような地名の漢字表記が、あちこちに発生してしまった。だから、地名の意味を探ろうとしたら、その文字の表記よりも発音の方が重要となるんだよ」
 「確かにそうですよね」
 「では、それを前提として『出雲』を考えてみようか。地名の基本は、わが国の場合、渡来した勢力のルーツを表していることが多い。その民族名や大陸に居た時の地名を付けるといったようにね。そして、もう1つは、人の名前を付けることもある」
 「なるほど。それもありそうですね」
 「そして、地名『出雲』に関わる人名等で考えると、あるひとつの結論に到達することができたんだよ。それは、出雲の勢力だと、何と言っても、スサノオ尊とその両親である『いざなぎ・いざなみ』だよ。スサノオ尊が、今の安来の地に来ると心が安らぐから『やすぎ』と付けられたとも云われている。では、なぜ心が安らぐかと言えば、そこは母の住まいする地だったからだよ」
 「確かに、母が住んでいる地に来れば、心が安らぐでしょうね」
 「その地には、母の里と書く地名があることからも、おそらく、そこが母『いざなみ』が住んでいた場所だろう。そして、スサノオ尊は、稲田姫と結婚して八重垣神社の地に住まいを構えたと言われていて、その時の歌も残されている。『
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を』と詠んだと残されている。つまり、その当時『いずも』と呼ぶ地名は存在したことになる。もちろん、そこに残されている地名の表記は、『出雲』ではない。つまり、今で言う東出雲の地が、当時『いずも』と呼ばれていたんだよ。では、それがなぜかということになる」
 「どうしてなんでしょう」
 福山は、東川がどういう認識を述べるか早く聞きたかった。
 「私は、その地名が、『い・ず・も』という3文字になった理由は、その地に住んでいた母『いざなみ』と、いわゆる出雲弁にあると考えている。スサノオ尊は、古事記で母に会いたくて大泣きしたとあるように、かなりの母親思いだったのだろう。それは、幼少の頃に、父親と共にこの列島にやってきたことにより、離れ離れになった母親に会えない寂しさからそうなったのだろう。そして、遅れてこの列島にやって来た母『いざなみ』は、安来の地に住まいを構えた。今もその地は、母の里と書いて『もり』と呼ばれている。『いざなみ』は亡くなって出雲国と伯耆国の境の地に埋葬されたとあるが、その『母里』の地は、ちょうどその位置関係にある。つまり、母『いざなみ』の住まいするエリアを意味しているのが『いずも』だよ」
 「えっ、どういうことでしょうか?」
 「スサノオ尊の両親は、『いざなぎ、いざなみ』だが、どうして、『いざ』が、両方についているのか不思議に思っていたんだよ。福山さんは調べられたことはお有りかな?」
 「いえ」
 福山も、確かに、二人の名前に『いざ』が共通することに疑問を持ったことはあるが、それが何故かを検証することまではしなかった。
 「いくら夫婦とは言え、名前が共通するとなると、ちょっと違和感があるよ。で、それが、どういうことなのかを考えていたんだが、別に不思議でもなんでもなかったんだよ。極めて簡単なことだと気づいた」
 「どういうことですか」
 「夫婦二人の名前に共通するとしたら、それは、苗字でしかないだろう」
 「えっ、苗字ですか!」
 「だから、名前は、『なぎ』と『なみ』だよ。ありそうな名前だろう」
 「なるほど。スサノオ尊の父『なぎ』さんと、母『なみ』さんですか。なんか出雲の神様というよりも身近な人の名前に思えます」
 「でしょう。これによって、『いずも』の地名が、理解できたんだよ」
 「そうですか? まだよく分かりませんが・・・」
 「先に触れたように、文字よりも、その発音が重要だと言っただろう。当時、漢字を使っていたかどうかも分からないし、その識字率等から考えても、ほとんどは、口伝えで名前や地名は残されていたのだろう。そこで、問題になるのが、今自分たちが話している言葉は、近代に至ってからのものだということだよ。また、出雲は、特にズーズー弁だということも考慮したら理解できたんだよ。つまり、スサノオ尊の両親『いざなぎ・いざなみ』の苗字は、『いず』だったんだよ。それが、『なぎ・なみ』と続くと、『いずなぎ・いずなみ』となる。適当な例かどうか分からないが、たとえば、『お前』を、崩れた言い方にすると『おめえ』となるように、後にくる言葉の母音に前の言葉の母音が言いやすいように変化する。そこに、出雲弁ということも考えると、『いずなぎ・いずなみ』は、『いざなぎ・いざなみ』と聞こえるし、また、言い易いようにそう発音してしまう。その結果、『いざなぎ・いざなみ』が後の歴史には残されていったと私は考えたんだよ」
 「なるほど」
 福山は、そういう説もあり得るかもしれないと思った。
 「そして、母の里が『母里(もり)』と呼ばれているように、母は、『も』だよ。朝鮮半島でも、母のことを『おもに』と呼んでいるところにもその名残があるよ。つまり、その『いず』家の母(も)のエリアだという意味で、その一帯が、『いず・も』と呼ばれた。そして、後に、好字令が出て、『出雲』と表記されるようになった。これが、私の考える『いずも』の由来だよ。だから、全国にある『伊豆』、『出石』、『和泉』などの地名も、『いざなぎ・いざなみ』に関連していると考えているんだよ」
 福山は、東川の説が正解かどうかは分からなかったが、1つの説ではあると思えた。

 「しかし、東出雲の地が、当時、出雲と呼ばれていたのかもしれませんが、今は、出雲大社のあたりも含めて出雲と呼ばれていますね」
 「それも、唐王朝に征服されたことが認識できない限り、理解できないよ」
 「と言いますと」
 「唐王朝に征服されるまでは、この列島の都は、出雲大社の地を中心としたエリアにあり、そこは、『やまと』と呼ばれていたんだよ。しかし、唐王朝は、この列島を支配下にすると、奈良の地に都があったことにしてしまった。つまり、歴史から出雲王朝を抹殺するためのものだよ。今の出雲の地にあった『やまと』は、この列島の都を意味する地名として、近畿に移されてしまった」
 「吉野や近江などもそうですよね」
 福山は、以前、佐田記者と出雲の歴史を検証した時のことを思い出していた。
 「よくご存知で。では、どうして出雲の地にあった都が、『やまと』と呼ばれていたのかもお分かりになったのかな」
 「そこまでは・・・」
 「この列島にやってきた最初の民族を『山戎』だと言っただろう」
 「そうでしたね」
 「つまり『戎』は、渡来人を意味しているから、その『戎』の言ってみれば固有名詞は、『山』だ。つまり、『山』という民族が、この列島にやって来て、自らの国の名前を『山』と呼んだ。すなわち『山国』というわけだよ。そうなると、その都は、何と呼ぶだろう」
 「とすると、『やま』国の都ということで、『やまと』ですか?」
  「そういうことだよ。魏志倭人伝にも、『邪馬国』が登場しているから、それが今の出雲一帯を意味していたのだろう。そこの都が、『やまと』だよ。だから、『やまと』は、『山戎』が、渡来した紀元前660年頃からの都だったと思うよ。そして、その都は、唐王朝に征服された後は、奈良にあった都だとされてしまった。そして、好字令が出て以降は、大和と書いて、『やまと』と読ませた。これが、『やまと』の意味するところだと考えているよ」
 一気に、『出雲』や『やまと』が、東川の口から解き明かされた。
 「まあ、あくまで、私の妄想だよ。ほとんど、誰もこんな説を正しいなどと共感する者など居やしないよ」
 「確かに、一般的に言われている説とは大きく異なりますから、直ちに、そうですねとはならないかもしれませんが、ひとつの貴重な説だとは思いますよ」
 「所詮は、年寄りの戯言だよ。だが、今のわが国の支配勢力の本性を理解しようとすれば、唐王朝に征服されたことが理解できない限り、その解明は不可能だよ。もちろん、邪馬台国だの卑弥呼だのと言った古代史の謎とされているものも含めてだ。つまり、わが国を征服した唐王朝の勢力は、手下に直接支配させて、自らは、天皇を表の絶対的支配者とし、その背後でこの列島を操ってきているんだよ。だから、平安時代だ、鎌倉時代だ、江戸時代だなどと、まるで時代や支配者が移り変わってきているように教育されているが、それは、あくまで手下が変わっただけのことだ。つまり、政権交代に過ぎず、支配下に置かれている人々の目先を翻弄するためのものだ。その中枢にいる唐王朝による植民地支配という形態は、一切変わってなんかいないよ」
 「ということは、1300年、この国は、唐王朝に支配され続けているということですか」
 「そういうことだよ」
 「でも、そんなこと誰も知りませんよ。むしろ、本当に、そんな勢力が存在しているんでしょうか」

 「目に見えるものだけを追いかけていても、認識できないだろう。彼らは、自らをも歴史から消し去っているからねえ。だが、自らの正体は熟知しているよ」
 「本当ですか」
 「ああ。最初に、この列島にやって来た民族が、『山戎』だと言っただろう」
 「そうでしたね」
 「歴史として確認ができて、この列島に大きな影響をもたらした最古の民族的渡来だよ。その時、この列島は、大きな転換期を迎えている」
 「それが、どういうことなのでしょうか・・・」
 「つまりだよ。出雲王朝を打倒して、この列島を支配下にした唐王朝の勢力が、ありのままに西暦663年から支配しているなどと残したら、それ以前の出雲王朝の支配や、自らがこの列島を侵略したことにも触れなければいけなくなる。だから、遠い太古の時代から、この列島は自らの支配下にあったことにしようと出雲王朝の支配を消し去り、なおかつ、その歴史を取り込んでしまったんだ。しかし、それ以前には、私が述べたように、『山戎』の勢力がやって来て、この列島に大きくその痕跡を残している。『山戎』の勢力は、出雲王朝とも協力関係にあって、事代主がその象徴だよ。したがって、彼らは、『山戎』の歴史をも取り込まなければいけなくなってしまった。だから、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)なる者が、東征の後、神武天皇として即位したのは、紀元前660年でなければいけないんだよ。それは、この列島を支配してきたのは、東胡・鮮卑族の象徴である天皇の勢力だけだという歴史を創作するためだ。つまり、彼らは、私と同様、『山戎』の渡来が、有史以来、最古の民族的渡来で、それが紀元前660年だと認識しているからに他ならない。この列島のすべての歴史を簒奪しようとした結果、今のわが国のような意味不明の歴史が出来上がったというわけだよ。すべては、唐王朝の勢力による歴史の捏造によるものだ。だから、わが国の古代史を解明しようとすれば、663年に唐王朝に征服されたことが認識できなければ、永遠に真実の歴史に到達することはできないよ」
 「確かに、そうかもしれません。でも、ほとんどの人は、そんな歴史など知りません」
 「そうだよ。だから、それをいいことに、907年に朱全忠等に滅ぼされ、大陸を追われてこの列島に流れついた唐王朝の残党は、再び、唐王朝再興を目指していて、今に至っても、その一味は大陸侵略を企んでいるんだよ。だが、そんなことを見破られるようなことは絶対にしないから、誰もそんな思惑なんか理解できない。まあ、お気の毒と言う他はないよ。だから、また、この国の人々は、大陸に行って銃剣を振り回すようなことになってしまうかもしれん。知らないということは、恐ろしいことだ。実際、わしは、戦時中、彼らに騙されて、大陸侵略のための手下になっていたんだからなあ」
 「この列島に、そんなことを企んでいる勢力が居るなどとは、誰も思いもよりません。もし、居たとしたら、まさしく現代に生きる『悪魔』ですよ。どちらにしても、そうならないことを願うしかありませんが」
 「とにかく、この列島の中枢を支配している勢力の本性や企みを知らせることが第1だよ」
 「そうですね。まずは、そこからですかね」
 「過去、そういった認識を伝え残そうとした人は、あったようだ。例えば、福山さんは、近松門左衛門をご存知かな・・・」
 「はい、知っています」
 「彼の作品の中に『国性爺合戦』という浄瑠璃がある」
 「それは有名ですよね」
 「その作品は、鄭成功が台湾を拠点にして、1644年に滅亡した『明朝』の再興を目指したという史実を題材にしているんだよ」
 「まるで、この列島に追われてきた、唐王朝の再興を目指す藤原氏とよく似ていますね」
 「おそらく、近松は、そのことを認識していたと思われる。だからこそ、それを題材にしたんだよ。この列島にも同じような勢力が潜んでいるということを知らせるためにだ。その作品は1715年に人形浄瑠璃として開演されているが、後に歌舞伎としても興行されていて、かなりの人気だったようだ。つまり、国民の中にも、そういった認識があったということなのかもしれない」
 「近松は、藤原氏が秘めている陰謀まで知っていたのかもしれませんね」
 「その主人公鄭成功は、明朝の人間だから、作品の中では、和藤内(わとうない)という名前にしているんだよ。つまり、倭人でも、藤原氏、つまり唐王朝の勢力でもない(内)という意味がそこに込められているんだ」
 「それは、よく考えられた名前ですね。でも、ひねりすぎたら分からないとしても、結構ダイレクトですね」
 「むしろ、明治維新以降の学校教育なるもので、記紀認識が徹底して教え込まれたことで、現代に近づくほど、唐王朝の痕跡や歴史の真実は見えなくされているんじゃないかな。抑圧や統制も現在の方が徹底されているのかもしれない。ある著名な歴史に詳しい哲学者の方は、『今の時代は闇の中にあるのに、誰もそれが闇だと認識できていない』と述べていたよ」
 「確かに、そうかもしれませんね」
 「唐王朝の連中は、過去から現在に至るまで、徹底して、自分たちにとって都合の良い歴史だけを残そうとしているんだよ。そして、『それは、後世の歴史家が判断するだろう』というわけだ。その立場、つまり、歴史を自らに都合よく改竄しようとする姿勢、その共通性こそが、私が今も唐王朝の勢力に支配されていると確信できた最大の根拠なんだ」
 「そうでしたか」
 「唐王朝の時代の歴史の描き方と、今のわが国の歴史の描き方が、全く同じ手法、同じ視点なんだよ。そして、唐王朝の時代の歴史認識を、そっくりそのまま踏襲している。まさしく、瓜二つだよ。その手法は、徹底して『騙す』ということで、その目的、根底にある動機は、『占領・征服』だよ。唐王朝の時代、彼らは、この列島の人々を獣のごとくに散々卑下し、そして悪者に仕立て上げてこの列島を『占領・征服』した。そして、大陸を追われた唐王朝の末裔たちは、今、この列島から大陸の人々を散々卑下し、悪者に仕立て上げ、明治維新以後と同様に、再び、唐王朝の再興をめざして大陸の『占領・征服』を企んでいる。どう見ても、同じ穴の狢としか考えられないだろう。その穴は、大陸からこの列島に移されたようだがな」
 「なるほどね」
 二人は、手元のお茶を飲み干し、店を出た。
                                                

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